坂枝助手の管理資料室
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アイテム番号: SCP-XXX-JP

オブジェクトクラス: Euclid

特別収容プロトコル: SCP-XXX-JPはサイト-8100の第3収容区画に収容されます。収容区画内部は24時間体制で監視され、特定実験の場合と給餌の時間のみ非監視下状態に置かれます。活動を停止したSCP-XXX-JPは検査を行った後に速やかに第4収容室へと移送してください。収容室内は定期的に自動洗浄されます。

SCP-XXX-JPの担当研究者は男性職員のみに限定され、出産経験のある女性職員によるSCP-XXX-JPの視認および接触は禁止されています。もしこれを行った女性職員を発見した場合は速やかに対象職員を拘束しBクラス記憶処理を行ってください。実験記録004以降、活動を停止したSCP-XXX-JPとの出産経験のある女性との接触実験は全面的に凍結されます。

新たな実験、解体調査を行う場合は主任研究員である新沼博士に申請してください。

説明: SCP-XXX-JPは推定9歳の児童を模したと思われる腹話術人形です。SCP-XXX-JPは無機物性物品であるにも関わらず一定の間隔で重量を変化させ、時折アンモニアを含んだ液体を排出するという特徴を有しています。1999年現在、サイト-8100は計15体のSCP-XXX-JPを収容しており、内5体が既に活動を停止しています。SCP-XXX-JPの見た目の特徴に一貫性は認められず、全長、性別、使用されている材料や着用している衣装等もそれぞれの個体で大きく異なります。

出産経験のある人間女性(以下、暴露後の女性をSCP-XXX-JP-1とする)がSCP-XXX-JPを視認または接触した場合、SCP-XXX-JP-1に対して重度の認識災害を発生させます。もし、SCP-XXX-JP-1がこの影響を受けた場合、SCP-XXX-JP-1はSCP-XXX-JPを自身の子供、または人間の児童であると認識し始め、率先してSCP-XXX-JPを自身の保護下に起く様になります。この保護行為は最終的には食事等の世話をするレベルにまで到達し(この際、未知の原理で食料は消費されます)、SCP-XXX-JP-1からSCP-XXX-JPを押収した場合は暴行や自傷行為、自殺と言った行動に出る程の重度のストレス状態に移行します。この異常性の発現はSCP-XXX-JP-1に限定されており、男性、出産未経験の女性には発現しません。現在、これらの選択がどのような原理で行われているのかは未だ解明できていません。また、これらの症状を完全に治療する試みも全て失敗しており、Bクラス記憶処理のみがこれに対応できる事が判明しています。

SCP-XXX-JPは人間の視認範囲外(カメラ、サーモクラフィーカメラもこれの範囲に該当します)での活動が可能であり、非監視下状態では常に収容室内を徘徊または収容室内の壁を殴打する等の行動を行い、この活動可能期間に食料の摂取等も行います。しかし、SCP-XXX-JPに対して重度の損壊を伴う行為や長期間放置する等の行為を行った場合、対象はおよそ7日間、最長で2ヵ月が経過した段階で活動を停止させその後一切の活動を行わなくなります。現在、これらの移動行動は新たなSCP-XXX-JP-1を捜す為に行われている行為であると推測されており、研究班の間ではSCP-XXX-JPとSCP-XXX-JP-1は一種の寄生関係にあるのではないのかと考察しています。現在、これらの活動を可能している機構の特定するための解体調査も行われましたが、原理は未だ判明していません。

実験記録

実験記録001: 1999/█/█

被験者: D-0128(男性)

実験内容: D-0128とSCP-XXX-JPと接触させる。

結果: D-0128はSCP-XXX-JPをただの腹話術人形だと証言した。また、実験中指示を出していた研究者の声が少し聞き取り辛いとも証言し、何か大きな声で邪魔されている様な違和感を覚えると主張した。

実験記録002: 1999/█/█

被験者: D-9271(出産経験のある女性)

実験内容: 実験記録001と同様。

結果: D-9271は酷く動揺した態度を示し、担当研究者に対して罵詈雑言を浴びせた。また、SCP-XXX-JPに対して謝罪しながら涙を流すという行為も繰り返した。後に記憶処理を施しD-9271の状態は安定した。

実験記録003: 1999/██/█

被験者: D-8888(男性)

実験内容: 既に活動を停止したSCP-XXX-JPと接触させる。

結果: D-8888はSCP-XXX-JPをただの壊れた人形であると認識したが、実験区画に侵入した瞬間に原因不明の嫌悪感を示した。また、呼吸のしにくさや顔に何かが纏わりつく、何かの羽音のような物が聞こえるような気がするとも主張した。

分析: 今回の結果から、私は既に活動を停止したSCP-XXX-JPに関してはさらなる異常性があるのではないかと推測します。その為、次の実験は長期間非監視下に置いたSCP-XXX-JPと出産経験のある女性を起用した実験を提案します。-担当研究者:新沼博士

実験004: 1999/██/██

被験者: D-2002(出産経験のある女性)

実験内容: 実験記録003と同様。

結果: D-2002がその場で叫び、激しく嘔吐、その直後に卒倒した。原因は不明。

分析: 活動を停止させたSCP-XXX-JPには人間に対して重度の精神影響を及ぼす可能性あります。しかし、これ程の影響を及ぼすならば今後出産経験のある女性との接触はより厳密に規制するべきだと提案します。-担当研究者:新沼博士

補遺: SCP-XXX-JPは1999/█/██に発生した殺人未遂事件を切っ掛けに発見されました。事件当日、██県██市█-██に在住だった新沼 奈津氏(33歳)が夫である新沼博士に暴行を加え、翌日、新沼博士がサイト-8100管轄の救急病棟に搬送された時にSCP-XXX-JPが回収されました。

新沼博士は事件発生の1ヵ月前から奈津氏の様子がおかしいと同僚の職員に相談をしており、調査の結果その内容が奈津氏が時折自宅で独り言を繰り返しているという物だったという事が判明しました。その後、新沼博士は奈津氏の調査を開始し、調査開始から2日後に奈津氏が未確認の腹話術人形に話しかけながら食事を振舞っている様子を発見しました。これにより新沼博士は1週間かけて件の人形の異常性分析を行い、それらの影響が奈津氏にのみ発現している事、奈津氏が人形を自身の息子(新沼夫妻の子供に関する記録や出生記録は一切発見されていません)だと認識している事をサイト-8100に報告しました。報告の翌日、新沼博士は自宅付近に機動部隊を待機させ、影響の伝搬を警戒して影響が見られない新沼博士自身で対象の回収を実行しました。しかし、その際に奈津氏が新沼博士に対して人形の回収を制止するよう行動したうえ暴行を加えかつ腹部を包丁で刺すという重傷を負わせるという事案が発生した事により、機動部隊が自宅内部に突入。すぐさま奈津氏は拘束され、人形も回収されました。

現在、奈津氏にはCクラス記憶処理を施したうえで解放し、カバーストーリー「未亡人」を適用しています。

1999年現在、新沼博士の書斎にあるゴミ箱の中からがSCP-XXX-JPに関与している人物が書いたと思われる文章が発見され、サイト-8100調査部はSCP-XXX-JPの製造に何らかの要注意団体が関わっているとみて調査を行っています。なお、この文章に関して新沼博士は一切を記憶していないと証言しています。また、この事案を皮切りに腹話術人形が切っ掛けで起った夫婦間でのトラブルという同様の事案が10件報告され、サイト-8100はすぐさま機動部隊とエージェントを派遣し人形を回収。後の調査でそれら全ての家屋で新沼博士の書斎で発見された文章と同様の物が発見されました。

以下は新沼博士の書斎で発見された文章の内容です。

追記: 2000年現在、現時点で活動を停止したSCP-XXX-JPの周囲で異臭がするという証言が得られています。現在、これらの原因を特定する為の調査が行われています。


「梁野博士。」

僕はやっとのことで彼を見つけた。

「……ん? ああ、『野々村』君。おはよう。」

博士を探す回るという行為。このサイトに配属され、彼と共に仕事をするようになってからもう何度目だろう。それもこれも、皆、この梁野武一という男の「癖」の所為だ。

今日も博士は廊下で寝転がっていた。この人はいつもそうであり、決まった場所に留まっていることがほぼ無い。その為、僕のように提出期日の迫っている書類の受け渡しを行う際に苦労する人間が後を絶たないのだ。その御蔭もあって、今じゃ配属したてのはずの僕の方が、他の職員よりもここいらの道に詳しくなってしまった。

「……おはようじゃないですよ。どれだけ探したと思ってるんですか。」

「ああ、それはそれは。」

この前だって別の職員が博士を探しまわり、挙句の果て、このサイト内で遭難してしまうという事件が起きたばかりだ。その職員が迷っていた時、当の本人がいた場所は会議室の机の下だった。この話を聞いた時、僕はその職員に大いに同情したのをはっきり覚えている。

ここへ来たばかりの頃は確かに驚いた。なにせエージェントに博士を紹介された時、案の定、彼は廊下で寝ていたのだ。しかも、丁度女性職員にセクハラまがいの行為をしている最中。彼は女性職員の足首を掴んだまま、引きずられて大爆笑していた。
自分の上司になるかもしれない人物のプロフィールぐらいは頭に入れていた。だから、僕は一時期は主任研究員にまでなった『立派な』職員だと言う勝手なイメージを持って、梁野博士の元へと向かったのだ。誰であろうと、そのような経歴を持っている人間だと知ったら、優秀な人間でかつ人格者であるという理由のない人物像を思い描いてしまうものだろう。しかし、結果はそれとは全く正反対だった。当然、僕はそのギャップに面食らってしまった。

「いや、ご苦労をかけたね。暇つぶしに本を読んでたらいつの間にか寝ちゃってたよ。」

「暇つぶしって……頼まれてた仕事はどうなったんですか? 」

僕は彼を探していた本来の目的を伝えたつつ、小脇に抱えている報告書の入ったファイルを持ち直した。

「頼まれた書類? ああ、うん。はいこれ。」

そう言って梁野博士は書類の束を取り出す。電話帳ほどもあるこのA4の束を何処にしまっていたのか、僕には皆目検討がつかない。僕はそれを受け取り、それぞれの書類をめくりつつ、じっくりと中身を確認する。

「……終わってますね。」

「終わっていたからこそ、暇だったのさ。」

そもそも、何で廊下でここまでの仕事ができるのか。自分のデスクで働いている自分がバカバカしくなる。こんなの納得できるわけがない。僕はそんな気持ちに加え、何か虚無感にも似た感覚を抱きつつ書類をファイルへとしまった。

だが、内心こんなことになるだろうと予想はしていたのだ。確かに、梁野博士はいつも廊下で作業していて、就寝の時ですらこのサイトの何処かで寝転がっている。それなのに、どういうわけか仕事だけはまともに終わらせるのだ。一体いつ、どこでそのような作業をしているのか。全く持って不思議であり、僕のような「ごく普通の」職員からしたら謎以外の何物でもない。このことに関して、理不尽と思っている職員は僕だけじゃないはずだ。以前、博士のこれらの行動を叱咤した主任研究員がいたが、博士の仕事の早さに勝てずに結果を残せなかったという事件以来何も言わなくなったのは記憶に新しい。

「……仕事が終わっているのなら別にいいです。でも博士にはちゃんとしたオフィスがあるじゃないですか。決まった場所にいてくれないと、正直探すのが面倒です。」

僕は博士に言った。これを言うのも何度目だろう。もう伝えたところで、彼が自分のオフィスで仕事をすることなんて無いと分かっているのに。本当はもっと、強い口調で声を大にした言葉をぶつけてやりたい。だが、そんなこと彼は何も気にしていないといった顔で聞くのだろう。本当に、何も気にしていない、何も感じていないという顔で。

「そう言われてもねえ。ここが一番落ち着くんだよ。」

博士は先程僕から言われた小言に対する返答をした。やはり予想通りの受け答えだった。その顔は、いつもと同じ穏やかな笑顔だ。

しかし、この人は本当に不思議だ。
僕がここに配属されて彼の下で働き出してから、彼が誰かを叱ったりだとか、誰かに対して何か文句を言ったりだとか、とにかく人に対して何か感情を爆発させた姿を一切見たことがないからだ。少し問題になるようなセクハラまがいの行為は良く話題には上がるが、彼が誰かに対して好意以外の何かをぶつけている姿など、断言出来るほどに一回も無い。そして、また不思議なのが逆に彼が誰かに何かをされたとしても、彼の中にある相手に対する好意の様なものが無くなることが決してないということだ。つまり、誰かを嫌いになるということが無い。コーヒーを服にこぼされた時も、悪口を言われた時も。大げさなことと思われるかもしれないが、彼はたとえ殺されそうになったとしても、その自分を殺そうとする相手にすら好意を抱いていると伝えるだろう。それほどまでに梁野博士という人物は、何かが人と違うのだ。

「……落ち着くとか、落ち着かないとか、関係無いでしょ。僕は困るって言ってるんです。」

僕は少し怒気の混じった口調で博士に文句を言った。しかし、相変わらず彼は何を言われても変わらない。

彼は僕と出会ってからずっと同じ調子で話し、同じ態度で接してきた。彼の僕に対する対応はあの時から全くと言っていいほど変わっていない。機械と触れ合っているとまではいかないが、声の調子、態度、身振り手振り、それらがまるで統一されているかのような印象を受ける。いや、僕だけじゃない。僕以外の人間とも、この彼の雰囲気は変わらない。まるで、器用に皆を平等に扱っているように。全てが平均化され、全てに好意を持っている。しかもその好意すらも平均化されていて、寸分の狂いもないのだ。そんな人間が本当にいるのだろうか。全ての人間と、完璧なまでに平均的に接することの出来る人間が。

ふと僕は足元に視線を移した。先程から博士が読んでいた文庫本がそこに置いてあったからだ。よくよく見れば、その本はとてもぼろぼろな状態で、紙が茶色に変色していた。一体いつから読まれているのか想像もできないほどにだ。表紙に印刷されたタイトルが目に入る。僕はそれを読んだ。

「……人間失格? 」

「ん? ああ、これか。これはね。」

博士の表情が少し物悲しげなものに変わる。この人がそういった感情を表に出すのを見たのは、僕が知るかぎりではこの時が初めてだ。

「私の半生のようなものだよ。」

「……半生? 」

彼は言った。人間失格が半生だと。 僕は頭に疑問符が浮かんだ。恐らく、あからさまに理解出来ていないといった風貌になっていただろう。そして、僕は少しだけその発言について考えてしまったのだ。
それほど壮絶な人生を生きていたのか、この人は。もしくは、登場人物と自分を重ねてる? 一体誰と。無難に行けば、恐らく主人公だろう。主人公と同じ人生。ふと、件の小説の大まかなあらすじを頭の中でなぞる。しかし、いや、今の博士からは想像できない。この人の人生。この人の人生?

「別に、この中の誰かに自分を当てはめているわけじゃないよ。」

「え。」

「ただ私は、これと共に生きて、これと共にここにやって来た。それだけ、私はこれと付き合い、それに費やすための時間が多かったというだけさ。」

まるで、僕の考えを見透かされたようだった。以前もこういったことがあった。僕が、心のなかでとどめた博士に対する悪態を、彼はそのまま口に出して再現してみせた事件だ。まるで、僕のことを、僕よりも知っているかのような物言いで、博士は言うのだ。その時だけ、僕は博士がまるで人間じゃないかのような錯覚に陥る。

「そうだ『野々村』君。」

「あ、はい。 」

僕は先程の思案を止め、唐突な呼び止めに何とか答えた。

「今日、新たに収容されるオブジェクトの一回目の実験が行われるんだ。君はここに来て間もない。だから、まだ収容手順の流れとかよく分かっていないだろう。それの見学がてらに連れてきてくれって主任が言ってたんだ。どうだろう。」

博士はゆっくりと起き上がり、僕の顔を見つめる。

「はい。分かりました。」

僕は二つ返事でその誘いに応えた。

「あ、それと最後に一つ。」

僕らが歩き出すと同時に、博士は再度口を開いた。彼が立ち止まると同時に、僕も立ち止まった。僕はそれに返事をする。僕の先を歩こうとしていた彼は、背を向けたまま話を続けた。

「今日の『子』は、私が見る限りとても怖がりだ。」

「……はい? 」

「気をつけ給え。わけが分からなくなって暴れだした子供ほど、扱いのむづかしい者はない。」

その時、僕はまだその言葉の真意が分かっていなかった。


「私は、『全ての他者』を愛しているんだ。」

僕は脇腹を押さえながら、痛む体に耐え悶絶していた。しかし、そんな僕の存在などには目もくれずに博士は喋り続けていた。

「だから、君のことも愛しているんだよ。」

サイト内の収容区画手前の廊下は辺り一面血の海となっていた。そこら中に人間だった物が散乱している。それらは既に肉片へと成り果て、一部ではゲル状に変異しているものまであった。視線を移せば、頭部と内臓が片隅にかためて置いてあるのが目に入り、ついこないだまで食堂で談笑していたはずの同僚たちの死体が山積みにされているのだ。暫く気絶していた僕は意識が鮮明になってはじめて、この光景を目の当たりにした。そして、その凄惨さからその場で吐き出してしまった。吐瀉物の中に交じる胃液の苦味が僕の舌を襲う。涙が滲み、ただ苦しいという感情だけが僕を支配していった。
護送中のオブジェクトが逃げ出すなんて。サイト内の事故。講習でも非常事態に備えてどう動けばいいかよく理解していたつもりだったが、ここまで凄まじいものだとは思いもしなかった。今日だけで、一体何人の人間が死んだのだろう。こんなにも簡単に人が死んでいくものなのか。誰にも気付かれない極秘施設の中で、こんな戦場が存在していたなんて。何人かの職員は生き残ってはいる。だが、ほぼ死にかけと言ったほうが正しいだろう。ある者は助けを呼ぶために悲痛な叫びを上げ、ある者は無くなってしまった両足を引きずったまま逃げようとしている。そのあまりの衝撃的な状況に、僕は思いの外、素直にその結果を受け入れることが出来てしまった。抗ったところで、どうにも出来ないという絶望が僕を飲み込んでいったのだ。
さきほど僕はそのオブジェクトによって壁に投げつけられた。その所為で今はこの血溜まりの上で腹ばいになって倒れている。体中に痛みが走り、まともに動くことすら出来ない。
死というものがすぐ目の前にある。生まれて初めての、本格的なそれを僕は感じた。

「君は凄い。これだけのことを、一瞬でやってのけたんだから。」

梁野博士が誰かと話している。僕は霞んでいる視界の中で、それを確かめた。その博士の声を頼りに、僕は何とか目と頭を動かした。

「……でも、これは君が好きでやったことなのかい? そうじゃなかったら君は本当に可愛そうな子だ。……ああ、かつて『他者』として認識していた者達のことも愛していたよ。だけどね? それも結局、死んでしまっていたらどうやっても愛することが出来ないみたいなんだ。……私は、まだそこまでには到達できていないらしい。悲しいね。私は。」

『他者』という言葉がとても引っかかった。博士の言うその言葉には、とてつもなく冷えきった物が根底にある。僕にはそう思えてならなかった。

この惨劇の中で、彼はどうしてこうも、いつもと変わらない平然とした態度で誰かと会話が出来るのだろう。そもそも、先程からしゃべっている内容自体が僕には理解し難いものだった。分からない。情報が少ない。いや、違う。分からないんじゃない。分かりたくないと言ったほうが正しいのかもしれない。そう思うと、僕のぼやけた頭でも嫌な想像ができてしまった。他に誰も居ないのなら、僕以外で会話を試みようとするものがいるとすれば、その答えはひとつだけだ。

「ん? やあ、『野々村』君。生きていたのか。私は嬉しいよ。」

博士が僕の存在に気がついた。その嬉しいという言葉が、どこと無く遠くを見て、恐らく僕のことを心配しているのではなく、そうすることが正解なのだという理由で行っているのだと感じた。

「……博士……一体、何を……。」

「彼女と話していたんだ。見給えよ、この光景を。彼女一人でやったんだ。どうだい? 凄いだろ。こんなことを一瞬でやってのけてしまうなんて。彼女は素晴らしい力を持っているよ。だけど、どうやらこれは彼女が望んだ結末ではなかったらしい。だから、私は彼女を慰めてあげていたんだ。だって可哀想じゃないか。……おっと、そうだ忘れていたよ。」

おもむろに博士は僕の業務用の携帯電話を僕の白衣の内ポケットから抜き取った。そして、先程の朗らかな口調とは打って変わって、とても真面目な言い方でこの惨劇についてを上層部に連絡した。周りでは、未だに阿鼻叫喚の声が鳴り響いている。

可哀想という博士の言葉が出てきた瞬間、僕は動けない体で心だけがざわついた。彼の口調は、本当に変わらない。いつもの日常を謳歌するときと全く同じなのだ。
僕の近くに博士が擦り寄り、倒れている僕を起こした。僕の背中を支え、壁が背もたれの代わりになるように座らせる。そして、僕は見た。博士と並んでいる、この惨状を創りだした当人を。そこにいる存在を明確な言葉で言い表すのにふさわしい言葉がある。それ以上でも、それ以下でもない。

「化け物かい? 」

博士が、まるで僕の心を見透かしたかのようにそう言った。まただ。また、この感じだ。僕のこの気持とは裏腹に、博士のその顔は本当に穏やかだった。

「確かにそうかもしれない。だけど、この子はただの臆病な『女の子』でしか無いんだよ。『野々村』君。それ以上でも、それ以下でもない。そうは思わないかい? だからこそ、彼女のこの行いを私は肯定してあげなくてはならない。じゃなきゃ、この子は自分の心を壊してしまう。君も、ただやったことを責められてるのは好きじゃないだろ? それと同じさ。そう、全く同じなのさ。」

「でも……こいつは、みんなを……。」

その瞬間、博士の表情が変わった。先程からの穏やかなものから一変し、そこには一切の感情の起伏も存在しないのだ。まさに鉄仮面だ。人間味というものが、消えて、無くなってしまったのだ。

「……『野々村』君。」

梁野博士が僕の顔に彼自身の顔を近づける。距離はほんの数センチ。彼は両手で僕の顔を掴み、ぐっと僕と自分自身との距離を縮める。

「私は、私の生涯を全くそれとは無縁なもので統一してしまった。だからこそ、私はそれを取り戻さなければならないんだ。私は皆を愛さなければならない。生きとし生けるものを、ずっと、心から愛し続けなかればならないんだ。私の『母』に注げなかった愛を、今こそ、私の中に創りださなければならないんだよ。じゃなきゃ、じゃなきゃ私は、きっと、恐ろしいモンスターになってしまう。やっと、やっとここまで来たんだ。私は、あそこにいる『彼女』も愛しているんだよ。『君』のことも愛しているんだよ……! だって、そうだろ……! 」

博士の目が、僕の目を見続ける。その目からは、何も感じられなかった。虚無。それが妥当だろう。空っぽなものが何求めたとしても、所詮は叶えられないのだ。僕は、その眼差しからそれを強く感じ取った。

いつの間にか周囲の声は止んでいた。というよりも、皆が梁野博士の言葉を聞いていたのだ。先程まで、殺戮の限りを尽くしていたそれも動きを止め、そこでは今の博士の悲痛な叫びだけがこだましていた。

博士は一旦僕から視線を離し、自身の周りを見回した。皆の視線が彼を見つめている。皆が皆、博士の先程からの文句に対して、恐らく僕と同じことを思っているのだろう。
博士は再度僕の方を見る。その顔は先ほどと変わって、いつものように笑っている。

「だから、私はここにいるんだよ。『野々村』君。 」

博士は最後にそう言って、何も言わなくなった。


機動部隊の介入により、事態は収拾された。僕と梁野博士は、この事件においての複数人いる内の生存者として保護された。そして、その後事件の概要について色々と聞かれた。当時の状況、オブジェクトはどのようにして人を襲ったのか。その他、なにか気が付いたことはなかったかなど。大体一時間ほどこれらの質問が続き、担当の職員の方と話して、僕は取調室を出た。扉を開けたそこには、僕と交代するのを待っていた梁野博士がいた。僕の出てきた取調室の向かいにあるソファーに彼は座っていた。

「終わったのかい? 」

博士が訊いてきた。僕は声を出さずに、小さく頷く。博士は、そうかと言って軽快に立ち上がり、僕とすれ違って部屋へと入っていった。横目で見たその顔は、相変わらずいつもと変わらない表情だった。
梁野博士に関しては、あくまで脱走したオブジェクトの活動を一時的に制御していたという名目で、ある意味今回の事件の功労者として扱われたらしい。だけど、僕はそうは思えない。あの人は、普通の人間とは違う。決定的な何かがずれている。あの、いつも温厚そうな顔に隠した物が、あの時、一気に漏れだしたんだ。僕にはそう思えて仕方がなかった。

「・・・だから、私は、ここにいる。」

博士が最後に言った言葉を復唱した。博士がここにいる理由。博士が、ここに自分の意志でいる理由。僕は少し放心的な動きをしながら、サイト内の廊下を歩いていた。一応の向かっている方向は僕のデスクのあるフロアへと続いてはいたものの、その足取りはおぼつかない。
僕は考えた。博士の言った言葉の意味を。

「私は全ての『他者』を愛している。」

僕はその言葉を思い出し、ふと後ろを振り返った。このサイトの、財団のとても無機質な廊下が延々と続いていた。

僕は思う。多分、あの人は、壊れているんだ。