ミルクがグラスの底部で螺旋状に広がり唐草模様を描いていった。
柳井豊雪は10数年前に行方をくらました推理作家である。多作家でこれまで何百冊もの推理小説を手がけた小説家だ。
ここまででは単なる失踪した小説家、という肩書き
ある日静岡県のとある旅館を皮切りに出所不明のゲームの筐体が次々と発見され始めたのである。筐体の隅には財団がマークしている要注意団体の如月工務店と印字されており、更に連名で柳井豊雪の名が小さく刻まれていたのである。そこで初めて財団は柳井豊雪という作家に「興味を惹かれた」。
最初の筐体が現れてから3年が経ち、豊雪が親しかった作家仲間や出版関係者が同時に失踪したのである。
財団は要注意団体の協力者として彼の捜査に当たったが、財団の力を以ってしてもその所在を突き止めるまでには至らなかった。
ゲームをクリアすることで彼の居所を掴む手がかりを得られるのではないかと早速
サクラは月村博士が昔のよしみで元部下である潮田をたてるためにこの重要な任務を与えたのではないかと少し勘ぐった。いや、帰ることができなさそうと踏んでわざと身近な手駒を使ったのかもしれない。
「付属の説明書が発見されて」
「へえ、小説にでも使えそうな名前だ」
喉をくつくつと鳴らす。
私はゲームの中でも名前を面白がられる運命にあるのか、とサクラは辟易する。
肌は浅黒く、伸ばされた手は角張っていた。
「あぁ、宗教はいかんね。宗教なんて、ある特定の物事を盲信して集団で陶酔するもんでしかないし[編集済]なやつらのお遊びですよ。特に作家という職業においては敵中の敵だ。思索、取材、執筆全部。その戒律ばかりに目を奪われて目の前にあることに気付けなきゃ想像力の足枷にすぎない」
は明らかに伏線のような台詞を吐いた。
(日本を代表する推理作家ともあろう豊雪がこんなに下手な伏線の張り方でいいのか)
とサクラはいらぬ心配をした。
パーティーに着ていくには少々地味な茶色のセーターを着ている。
「何かお作りしましょうか」
カウンターの向こうで神戸が問いかける。その豊かな胸には青い石をあしらったアクセサリーが光る。
潮田は少し悩んだ。
明日人が殺されるのでそれに備えて素面でいたいんですとは言えまい。しかし、どんな言い訳であれ酒をすすめられて無碍に断る訳にもいくまいとも思った。そして、同時に潮田は選択肢次第でキャラクターの好感度が変化し、その後の攻略に影響する類いのゲームがあることを思い出していた。
「少しいただきましょう」
潮田はあまりカクテルに明るくなかったので一言「おまかせします」と告げた。
「ソルティドッグでございます」
にこやかな表情を浮かべながら将棋の女流棋士のように繊細な手つきでグラスを差し出す。声も顔も朗らかで先程の会合の時よりもフランクな印象を受ける。顔を見ると多少上気していて呼吸が浅い。既に何杯かあおったようだ。
「本当はシェーカーで振らなきゃいけないところなんですが生憎シェーカーがないもので」
白い粉がグラスの飲み口に輝いていた。目を凝らすと三日月のように見える。
淵に塗りつけられた塩を見つめていると、
「お飲みの際は塩がついてるところを選んでお飲みください」
と促された。
潮田は早速スポーツドリンクのような味のカクテルを飲んだ。嚥下する度に熱いアルコールの刺激が喉を伝う。塩が相まってか味だけはそこらの体育会系の部活動の部員に馴染みがありそうな代物である。喉に心地よい熱気が滞留するのを感じた。
3分の1ほど飲み干すと神戸は口を開いた。
「ソルティドッグはマルガリータと並んで塩を使った代表的なカクテルなんです。塩を使わない場合は名称が変わるんですよ」
こういう豆知識が出てくるとバーで酒を飲んでる気になれていいと潮田は内心ご満悦だった。
「カクテルはシェーカーがなくては作れないとばかり思っていたのですが、これを作るのは簡単ですね」
潮田がグラスを持ち上げた矢先、神戸の顔が微かに歪んだ。
グラスの底に彫られた十角形の面を見つめていた。
潮田は酒を飲んだ後は決まってスポーツドリンクが飲みたくなる。これは習慣ではないが、その都度身体が潮田の意思に反して自然と欲しがるのだ。
気の利いたことに個室の冷蔵庫にはスポーツドリンクが入っていた。あれだけの酒豪たちを一所に集める豊雪邸らしい配慮であると思った。
一口飲むと先ほどのソルティドッグの後味とはあまり変わらない味が口腔に広がった。
もう殺人事件が起こったのかと潮田は一瞬身構えたが、どうやら単に飲みつぶれているらしい。
彼は機関車のように速い息を繰り返している。
「君が今まで読んだ本で解決しなかったミステリーはないだろう?」
「明日の朝一番に書斎を調べよう」
「正確には今日の朝ですけどね」
ちらと時計を見た。とうに2時を回っている。
「朝って漢字だって『あした』って読むだろう?」
潮田は少しおどけてみせる。
「ふふっ、屁理屈ですよ、所長」
サクラは微笑んだ。冷たい恐怖の色も幾分か和らいだようである。
「屁理屈でもないとこの仕事はできないよ」
潮田は言葉を継ぐ。
「それに今ので何か掴んだ気がするんだ」
サクラは潮田の励ましの言葉を心の中で反芻する。
「君が今まで読んだ本で解決しなかったミステリーはないだろう?」
多重解決ものや最後まで犯人が誰か分からずじまいのものもあったが、サクラは黙っていることにした。
淡い夢を見た気がしたが内容は思い出せない。身体は布団で覆っていた部分こそ温かいが、首から上は血が通っていないと思えるほどに冷却されている。特に眼球がビー玉のように冷たい。
サクラは寒さで芯まで固くなった耳を揉みながら起き上がる。部屋は音を立てることを厭う程に静寂を保っていた。
「そういえばサクラ君、柳井豊雪の本は読んだことある?」
「1冊だけです。私には文章が固くて…」
「その本と今回の事件、何か共通点とかなかったりする?」
「いいえ」
「そっかぁ、似たようなトリックがあったら何か参考になると思ったんだけどな」
サクラは内心少し申し訳なくなった。
「いや、別に責めてる訳じゃないよ。気にしないで」
それを察知してか潮田はすかさずフォローに入る。
「豊雪は僕たちに何か伝えたいような気がするんだ」
「この『豊雪邸の殺人』も彼の作品の一つなら、事件解決の糸口が提示されていてもおかしくない」
サクラにとっては根拠のない憶測に思えたが、しかし改めて考えるとその線もありうる。よく分からないが、物を書く人種というのは殊更に主張が激しいという偏見がサクラには少しあった。
「彼は遺体を触るより先に僕たちに本棚は絶対に触るなって釘を刺していたよね」
「ええ、作家の性なんでしょうか。あの状況であんなことを言うなんて」
「いや、事件が起こる前に書斎に案内してもらった時、本棚に近付いたけど何も言われなかったんだよ。でもあの時は必死に『触るなと』念押しした…」
潮田は振り向いて血まみれの棚に目を向けた。
「本棚に何かあると思うのがミステリーにおける自然な流れだよね」
「見てくれ、この人の本」
「『ひがし』…?」
登場人物全員が集まったリビングには重苦しい空気が立ち込めている。天井にはプロペラが回っているが、この陰惨な空気を攪拌するには頼りない。