遠野司書の記憶の片隅
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 ある夜半、下鴨神社の参道から少し外れた林の中に、赤い灯火が揺れていた。
 鬱蒼とした木々に月光すら遮られた闇の中、ゆらゆらと浮かぶ光はまるで人魂のようにも見えたであろう。しかし慎重に目を凝らせば、それは人魂などではなく赤提灯の灯りだと判る。
 弥生の初め、まだ肌寒い早春の宵である。
 赤提灯は小さな木製の屋台を照らし出す。洛中洛外屈指の観光名所とはいえ、夜はほとんど人も通らない場所である。そんな場所に出没する屋台となれば、あの猫ラーメンをいて他にない。
 人口百五十万を擁する京都市中にあっても、猫ラーメンの存在を知る者は限られている。猫ラーメンとは下鴨界隈に夜な夜な出没する神出鬼没の屋台ラーメンである。前触れも規則性もなく忽然と現れては多くの美食家や数奇者、あるいはたまたま通りかかった腐れ大学生の舌を唸らせ、数多の料理人が味の再現を試みたものの成功したためしは一度もない。一説には猫から出汁を取っているとも言われるが、兎にも角にもその味は無類である。
 猫ラーメンの古びた屋台に、今宵はふたつの人影があった。横長の座席に腰掛ける客の女と、調理スペースの奥に控える店主の男である。店主のほうは椅子に坐って京都新聞を広げている。そんな店主の態度を意にも介さず、女は無言でラーメンを啜る。黒髪の、落ち着いた雰囲気の女である。
 ずぞぞっ、と麺を啜る音だけが響く。女は目の前のラーメンをゆっくりと味わう。あまりにもゆっくりで麺が伸びてしまいそうだが、そんな女の食べ方を咎める者は誰もいない。
 不意に、女の背後で暖簾がめくられる。一人の男が暖簾をくぐり、女の隣に腰を下ろす。
 新たな客は、精悍な顔つきの中年である。黒い外套を身にまとったまま、両手を寒そうに擦り合わせている。
「ラーメンひとつ」
 男の注文に、店主は返事もせず、頷きもせず、ただ新聞を畳んで立ち上がる。
 寡黙な店主は、慣れた手付きで調理を進める。一食分の麺を鍋に投入して茹でていく。その間に、別の鍋で仕立てているスープを用意する。
 立ち込める唯一無二のスープの香り。
 豪快かつ繊細な湯切り。
 全ての動作に一切の迷いがない。熟練の技である。
 ラーメンが出来上がっていく間、男は店主の一挙手一投足をじっと凝視していた。
 ラーメンが完成した。濃厚に白濁した豚骨系のスープである。男はまず蓮華でスープをすくい、啜った。口に含んだスープを嚥下してから、男は、ほう、と感嘆の息を吐いた。
 麺を箸で挟み、つるつると啜る。それほど量の多くないラーメンは男の腹にみるみる収まっていく。
 五分もせずに男は替え玉を注文した。店主が再び立ち上がって麺を茹で始める。
 隣の女は未だ食べ続けている。この調子なら、彼女の食事が終わる前に男は二杯目のラーメンを完食するだろう。
「ときに、石榴倶楽部とかいう連中について知らないか?」
 替え玉を待つ時間を持て余したか、男が不意に話を始めた。店主はやはり何も答えない。
 やや間を置いて、隣の席の女が口を開く。
「ええ、よく存じていますとも」
 女の視線が隣の男へ向くことはない。女は手元のラーメンばかり見ている。額から鼻筋、唇、顎にかけての凹凸が絶妙に調和した、端正な横顔である。
 猫ラーメンを愛好するような人物であれば、石榴倶楽部の噂を聞いたことがあっても不思議ではない。男はそれを見越して、この屋台へ足を運んだのだろうか。洛中の名士が珍味妙味を求めて集う会員制の秘密結社、と噂される団体だが、何せ秘密結社であるからして、その実態は秘密のヴェールに覆われている。
「倶楽部に興味がおありですか」
「いや、実は俺は東京で寿司職人をしているんだが」
 男の身の上話が始まった。
「この前、うちの店に妙な客が来た。褞袍姿で、少し関西訛りのある客だ。そいつは見たこともねえ妙な肉を店に持ち込んで、これで寿司を握れと要求してきやがった。すぐ断って、追い返したよ。他人に指図されて握る寿司なんて俺の寿司じゃねえからな。だがあれ以来、どうもあの時の肉が気になって仕方ねえ。俺は探偵に頼んでその客のことを調べた。そうして浮かんできたのが『石榴倶楽部』だ。あの客はうちの店に来る前、その石榴倶楽部とかいう連中とやりとりをしていたらしい」
 男の丼に、替え玉が投入された。
 食事を再開した隣の男に、女が尋ねる。
「それで、あなたはその肉を再び手に入れるために、石榴倶楽部に接触したいというわけですか」
「そういうことだ」
「結局、そのお肉がなんだったのかは御承知で?」
「いや。見たのは一瞬だけだった」
「でしたら、しておいたほうが良いかもしれません」
 女は淡々と言った。
 平坦に放たれた女の言葉には、一抹の侮蔑も嘲笑も籠もってはいなかった。しかし男には、それが却って侮蔑的に、嘲笑的に聞こえた。
「この街の湛える闇は深いのです。あなたが想像するよりずっと」
 女は言った。
「闇だと?」
 男は怒った。
「俺に向かって闇を語るか! 俺を誰だと思っている。俺は闇! 闇寿司の闇だ!」
 咆哮する男の声を聞いているのかいないのか、女は供物を捧げ持つかのように両手で丼を持ち上げ、悠々と傾ける。濃厚なスープが一滴残らず女の喉を通り過ぎる。
「ごちそうさまでした」
 女の長い食事が終わった。席を立つ女を、男が呼び止める。
「まだ終わっちゃいねえぞ。貴様が愚弄した闇の寿司、今から存分に味わってもらう」
 外套を脱ぎ捨てた男は純白の調理衣姿となって、片手にラーメンを持っている。透き通ったスープの醤油ラーメン。一体どこに隠し持っていたのか、猫ラーメンとは明らかに別のものである。
「本当に短気な方。話に聞いていた通り」
 女はそれに応じるように、つい今しがた食べ終えた猫ラーメンの丼を手に取る。
 女の行動に、男は目を丸くする。
「その空の丼で、俺の寿司に対抗する気か? 笑わせるな!」
 男が口汚くなじっても、女は顔色ひとつ変えない。男は懐から二本のレンゲを取り出し、丼を挟む。女も屋台からレンゲを借り、同じようにする。 
「東京の方の考えることは理解に苦しみますが、要は式神のようなものでしょう。であれば造作もない」
 二本のレンゲに挟まれたそれぞれの丼が高速で回転し、勢いよく射出される。対峙する男と女の足元で、醤油ラーメンと空の丼とが目まぐるしく交錯する。
 雌雄はすぐに決した。
 男の醤油ラーメンによる重量感のある突撃を、女の放った丼は軽快にかわす。丼はまるで海中を泳ぐ魚のように、花から花へ飛ぶ蜂鳥のように、トリッキーに躍動して醤油ラーメンを翻弄する。
 あとは時間の問題だった。
 質量の大きい醤油ラーメンは、時間経過による回転力の減衰を免れ得ない。回転が落ちる前に、軽量な丼に一撃でも加えられていれば勝敗は変わっていただろう。しかし、丼はその全てを回避した。勢いの衰え始めた醤油ラーメンに、レーザービームのような丼の突撃が命中する。弱点を的確に捉えた攻撃に、醤油ラーメンはひとたまりもない。
「何ッ!」
 醤油ラーメンを吹き飛ばした丼は、そのまま男の額にクリーンヒットする。
 男はそのまま背後に倒れる。土の上に身体を投げ出され、大の字になって夜空を仰ぐ。
 荒い呼吸の混じった声で、男は尋ねる。
「貴様、只者ではないな。何者だ」
「名乗るべき名は捨てました。今はただ、椎名と」
 椎名。女の口をついたその名を聞いて、男は理解した。
「そうか、貴様、石榴倶楽部の……」
 男はそこで失神した。
 女は勝負に使った丼を拾い上げる。丼には傷ひとつ付いてはいない。丼を返すと同時に、注文したラーメンの代金を払う。
 ラーメン二杯分と、替え玉一個分の代金である。
「よろしいので?」
 今夜初めて、店主が口を開いた。
「ええ」
 女は事もなげに答える。
「つい張り合ってしまいましたけれど、特段彼に恨みはありませんし……私も、鬼ではありませんから」
 脱ぎ捨てられた黒い外套を男に掛けてやってから、女はその場を去った。
 どこか遠くで猫が鳴いた。春の夜はなおも更けていく。

 翌朝、男が目を覚ましたときには、屋台は跡形もなく消えていた。丼が砕けて無残に飛び散った醤油ラーメンだけが、地面に残されていた。










(下書きここまで)


(以下オマケ)











高瀬川の左腕、身元判明 富山の会社員男性

 京都府警は23日、京都市下京区の高瀬川で7日未明に見つかった左腕は、富山県富山市の会社員、小杉友晴さん(31)のものだったと発表した。
 府警によると、小杉さんは6日から会社の同僚数名と共に京都市内を訪れていたが、6日深夜に四条河原町付近で同僚と別れて以来、行方がわからなくなっていた。身元はDNA鑑定によって判明した。発見現場周辺からは小杉さんのものと思われる眼鏡の一部や衣類の断片も見つかっているが、小杉さん本人の行方については生死も含め依然不明。府警は、6日深夜から7日未明までの間に小杉さんがなんらかの事件に巻き込まれたと見て、広く情報提供を呼びかけている。

(信濃中央新聞、████年3月24日朝刊)










The Edge of Lib. Tono's Memory



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一番最後でもいいからさ 世界の涯てまで連れてって1



























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