天井の光は弱弱しく明滅している。それは男の途切れがちな呼吸に呼応しているようだ。男は指一つ動くことすらままならず、ジッと訪れるはずのない旅路の終わりを待つことしかできなかった。
男には身寄りがない。数十年前に妻を亡くし、一人息子もその息子も、みな男より早く終の旅路へ歩んで行ってしまった。
今、男を見守っているのは病室の白い天井と若い女性の看護師だけだ。
「向山さん。本日はキレイな空ですよ」
看護師が病室のカーテンを開くのを向山は感じた。感じた──もはや向山の双眸には光を知覚することができなかったからだ。
看護師が日常通りの医療業務を続けていると、病室の扉を数回ノックする音が室内に響く。向山は最初は自分の見舞い客かと考えたが、もう自分を見舞いに来るような親しい者など誰もいないことを思い出した。
病室に入って来たのは白衣を纏った若い女性だった。向山には確認することができないが、くるぶし近くまで白衣の裾が達している辺り、とても小柄な女性だ。
「失礼します。私は桜良心製薬の西海枝(サイカチ)と申します。向山さん、少々お話をお伺いしたいことがあるのですが……」
西海枝と名乗った女性は医療ベッドに横たわる向山に丁寧な物腰で声をかけた。
だが向山は薄れゆく記憶の中からどんなに掘り起こしても西海枝と名乗る人物に覚えがなかった。彼女を追い返すよう看護師にしゃがれた声で告げようとした時──
「我々はあなたが今、最も必要な物を用意しています」
その言葉で向山から抗う気持ちが霧散した。
「1945年の2月、あなたはご自身の死因を売った。間違いはありませんね?」
「……あぁ。もう長い長い昔のことだ」
向山は西海枝の言葉に公定の意思を示した。それは日本がまだ戦時中だったころだ。当時の向山は二十歳を越えたばかりのどこにでもいる普通の男だった。それ故に徴兵によって戦地へ送られた。
「私は母と妹に必ず帰ると言葉を遺したが、もう帰ることはできないだろうと感じていた。どこかの戦地に送られ、誰からも見守られずにひっそりと土塊になる。それが当時の男達にとって当たり前の最期だった」
若い西海枝にとっては歴史の授業でしか知ることができない事実だが、目の前の老人は経験でそれを知っている。それはきっと彼女が思う以上に重い真実であり、軽い命なのだろう。
「怖かった。私は死が怖かったんだ」
その語り口は罪を犯した信徒が懺悔室で神父に罪を告発するかのような静かな言葉だった。
「兵士たちがモグラになったかのように無心で掘った塹壕の壁に背中を預けていた時だ。私は妙な男に出会ったんだ」
そう言って向山は天井を仰ぐ。映ることのなくなった瞼の裏で、彼は記憶の中から奇妙な出会いを掘り出した。
──生き方を自由に選べるように、死に方も自由に選んでみませんか?──
「彼は私に笑顔で語り掛けてきた。最初は疲れからの幻覚だと思った。場違いなトンビコートを羽織った山高帽の男だったからな。だが男の足元にしっかりと影があるのを見て、次に妖怪か何かだと思った」
どちらにしろまともな存在だとは思えなかったと向山は続けた。
「だが男は笑顔を崩さずに『死は誰にでも平等に訪れます。だからこそ意味のある死に方を望みませんか?あなたにも遺してきた大切な人たちがいるはずでしょう?』と述べた時、家に遺した母と妹の事を思い出した」
向山の脳裏には、母と妹と既に亡くなった父と共に過ごした家族の団らんが浮かぶ。それは戦時中で日に日に貧しくなる家計だったが、それでも幸せだった。
こんな場所で土塊になりたく無かった。そう思ってからは向山はその男の言葉を耳から引きはがすことができなくなっていた。
それがとてつもない代償を孕んだ商売の話だと知らずに。
「その男は死に方を売買できると言っていた。『人はみな誰しもが生れ落ちた瞬間に定まった結末へ向かっています。本来は決して覆ることはありませんが──我々の取り扱っている物でなら因果を動かすことが可能です』だったかな。他にも何か言っていたと思うが、私には半分も理解できなかった」
「……向山さん、不審には思わなかったのですか?死因の売買など、普通なら──」
「──できるわけがない。あぁ、その通りだ。素面の頭で考えれば絶対におかしいとおもっただろう……狂っていたんだよ!あの塹壕にいた時の私は!死にたくないばかりに異常な言葉だろうと縋るしかなかったんだ!」
老人の喉から激昂と共に血と痰が混じった咳が零れる。本当ならとっくに事切れている肉体だ。それでも老人は決して死ぬことは無い。
なぜなら今、彼は死因を持っていないからだ。
死因を持っていない人間はどれだけ生きようと死ぬことができない。
終点のない列車が意味もなく走り続ける。タイヤが朽ちようとも、ボディが砕け散ろうとも。終わりのない旅路が続くのみだ。
「男の促すままに、私は自分の死因【銃殺】を売り払った。それからは前線に出ても弾がほとんど当たらない。当たっても致命傷には至らない軽傷ばかり。それだけじゃあない。部隊が爆弾で吹き飛ぼうとも、私だけは幸運が重なって決して死ぬことはなかった。私は高揚したよ。終戦を迎え、本土に帰還した他の兵士たちは足や手を欠損したとしても、自分だけは五体満足で帰ることができたのが嬉しかった」
皺が何重にも刻まれてやせ細った両手で老人は顔を覆った。
指の間からは、もはや光を見ることができない眼を伝って雫が数滴垂れる。
「……家には誰もいなかった。いや、家すらなかった。家のあった場所には焼け落ちた木組みと、真新しい札束だけがあった……死体がなかったのは救いだな」
垂れ落ちた雫がシーツを濡らしていく。
「誰も私を待ってくれない人生に何の意味があるのか──札束を抱えて空を仰ぐことしかできなかったよ。西海枝さん、あなたに待ってくれる人はいるのかい?」
10数分は泣いた後、向山は唐突に話を振ってきた。
「生憎ですが……私には待ってくれる人はいません。でも孤独ではありません」
「そうか、大事にしなさい。たった一人で死ななくて済む人生とは、とても幸福なものだから」
西海枝は白衣の内側から携帯電話を取り出した。とても真新しい傷一つない携帯電話だ。盲目の老人の手に契約を済ませた携帯電話を握らせ所定のサイトへアクセスした。
液晶画面に【YES】【NO】と浮かび上がっている。彼女は【YES】にカーソルを合わせてから手を離した。
「あなたの名義で契約は済ませています。右上のボタンはわかりますか?それを押せばあなたは死因を買い戻すことができます」
「……感謝するよ、しかしあなたたちは一体……」
「お答えすることはできません」
「そうか、ありがとう西海枝さん……」
所持品一覧に死因【銃殺】が追加された瞬間、向山の心臓を無音の弾丸が貫く。
即死。おそらく痛みすら感じないほどの刹那な終末が老人に訪れたはずだ。
この現代日本でどうやって銃による死傷が可能だろうか?拳銃強盗や警察官の銃の暴発が病院で起こるにはどれほどの確率だ?
限りなく零に近い。こうするしか彼の旅路は終わらせられない。
白衣の懐に抜き去った拳銃をしまうと、西海枝は病室を出て行った。記憶処理等の後始末は別の職員がする手筈になっている。
報告書:執筆者 西海枝捜査官
SCP-1235-JPのWEBサイトに登録されたアカウント履歴を遡った結果、インターネットが存在する前より活動を続けていたことが判明しました。
現在こそインターネット上で活動をしていますが、かつては通常の訪問販売の様に死因の売買をしており、当時の顧客データも現代まで保存していたと思われます。
時代の変化に沿って進化するオブジェクトであるため、さらなる追加調査と、現在SCP-1235-JPを運営する個人または組織を新たなる準要注意団体として登録を要請します。
アイテム番号: SCP-672-JP
オブジェクトクラス: Safe
特別収容プロトコル: SCP-672-JPはサイト-81██に存在する低脅威度物品ロッカーにて保管してください。実験を行う際は担当研究員2名以上の許可を取り、落雷による火災及び停電を回避するため必ず野外で行うことが義務付けられています。なお実験に使用する食材は実験志願者が持参してください。
説明: SCP-672-JPは中世ヨーロッパ時代の拷問器具とされている鋼鉄の処女を模した高さ2.2mのバッテリー式野外オーブンです。材質は鉄で作られており、プラスティックでコーティングしています。表面の赤錆や付着した血液のような意匠は全て塗装で再現しており、一般に購入できる塗料であることが品質検査で判明しました。
内部は3層構造となっており、調理方法によって下記の3つに分けて使用できます。
上部 |
燻製用のスモーカー |
中部から送られた煙を利用して燻製を作る。頭頂部には落雷を受けるための避雷針が設置されている。 |
中部 |
串焼き用の13本の鉄串 |
鉄串は取り外し可能であり、食材を焼き上げたことで発生する煙を上部に送る。 |
下部 |
揚げ物用のフライヤー |
内容量2.2L。中部で焼いた肉汁が溜まる。 |
その他アタッチメントとして「飯ごう炊飯器」「圧力鍋」「土瓶」「ピザグリルスタンド」が別途用意されています。
SCP-672-JPは内部に食材を入れることで異常を発生させます。SCP-672-JPは食材を自動感知するため、食材を入れてハッチを閉めることで自動的にロックがかかります。よってスイッチ等は電源を起動するための物が背面に着いている以外には存在しません。電源を起動させてハッチを閉めてから5分経過後にSCP-672-JPの上空に雷雲が発生(事前の気象予測で周囲一帯の気象が快晴であったとしても)します。発生した雷雲から1.21GW以上の落雷がSCP-672-JPに直撃することで内部に10万Aの電流が流れます。その時に発生する熱を利用して、内部の食材を最も旨味を引き出す段階まで調理を行います。本来であれば肉や野菜など調理にかかる加熱時間に差異があるものでも同時調理が可能です。落雷直撃後に上部にデザインされた瞳孔部から赤い水分、口からは黒い煙を排煙し、そこから10秒経過することで自動的にハッチのロックが解除されます。なお、化学分析の結果、赤い水分は食材と同じ成分であることが判明しています。内部を調べても、食物を感知する電気的なセンサーが見当たらず、どのように食材を感知しているかは不明です。生命体を内部に入れても扉をロックできず、雷雲は発生しませんでした。内部に事故防止のチャイルドロックと生体センサーが搭載してると推測されます。
SCP-672-JP発見の経緯は、捜査官が財団のフロント企業に出向中、財団とは無関係な同僚の██氏よりホームパーティに誘われたことで当該物品を発見しました。同僚の██氏による「面白いデザインの野外オーブンだったので販売業者に注文した」という証言を記録してから、Aクラス記憶処理を行ってSCP-672-JPの回収をしました。その後カバーストーリー「最新バーベキューセットの施工」を流布しています。
調査記録: SCP-672-JPの販売業者はオブジェクトの開発以外にも、大手一般企業による下請け業務も行っているため、販売業者に直接業務停止措置を制定するのは困難であると調査担当の西海枝捜査官から報告を受けています。製造工場を特定する試みは全て失敗しており、SCP-672-JPがどのように流通しているかは現段階では不明です。 追調査により、製造工場の特定に成功しました。しかし捜査官たちによる実地調査を行う直前に製造工場は放棄され、内部にSCP-672-JPと同型の製品が4つ残されているだけでした。この放置された同型の製品では異常性が発生せず、製造過程の試作品と推測されます。
実験記録672-JP
実施日 20██/██/██
被験者: D-672-01
実験内容: 一般的な食材を利用した実験と摂取後の異常性残留の確認
実験使用物: 市販の鶏むね肉200g
結果: 焼き鳥2本
分析: 。摂取後の排便とD-672-01を異常性残留検査に回したが異常は見当たらなかった。本当に調理するだけの器具と思われる。
実施日 20██/██/██
被験者: 杜松博士
実験内容: 一般的な市販食材を使用した調理実験
実験使用物: 市販の牛ヒレ肉200ℊ 人参1本 玉ねぎ1つ 車エビ(学名: Marsupenaeus japonicus)2尾 サーモントラウト(学名: Oncorhynchus mykiss)1匹
結果: 牛ヒレ肉の串焼き3本 スモークサーモン1皿 人参と玉ねぎとエビのかき揚げ
分析: どれも最適な焼き加減だった。興味深いのは串焼きに使用したヒレ肉と燻製調理したサーモントラウトが同時に調理が完了した点である。
実施日 20██/██/██
被験者: 実験開始直前に周囲を歩いていた西海枝捜査官とH捜査官とT捜査官
実験内容: 通常では流通しにくい食材を使用した調理実験
実験使用物: ウシガエル(学名: Lithobates catesbeianus)の足2本 アオダイショウ(学名: Elaphe climacophora)1匹 クロコダイル(学名: Crocodile)の肉200g 味付け済みイナゴ(学名: Catantopidae)1パック
結果: ウシガエルとアオダイショウの串焼き2本 スモーククロコダイル1皿 イナゴの天ぷら
分析: カエルは鶏肉に似ていると聞いていましたが思った以上にあっさりしています。アオダイショウももらって良いでしょうか?(執筆者: 西海枝捜査官)
前にワニのステーキを食べたことはありますが、燻製も悪くないですね。(執筆者: H捜査官)
虫のくせに美味しいのが悔しい。(執筆者: T捜査官)
一般的にはゲテモノと呼ばれる食材でも問題なく調理できるようだ。(杜松博士)
実施日 20██/██/██
被験者: なし
実験内容: 人肉を使用した調理実験
実験使用物: 別オブジェクトの実験中に終了したDクラス職員の左手親指(終了後検査により異常性残留無しと確認)
結果: 調理可能
分析: 外見はフランクフルトソーセージに見えなくもないが、これを食べる気にはなれない。
実施日 20██/██/██
被験者: なし
実験内容: 一般的に食材とは認識されない愛玩動物の肉を使用した調理実験
実験使用物: 保健所から提供されたイエネコ(学名: Felis catus)の肉100g
結果: ハッチのロックがかからず調理不可
分析: 食材として認識されないようだ。私も食べたいとは思わない。
実施日 20██/██/██
被験者: なし
実験内容: 生命体を使用した調理実験
実験使用物: D-672-01 高電圧用絶縁スーツ
結果: ハッチのロックがかからず調理不可
分析: 家庭用に設計されているため、誤って小さな子供が入る事故を防ぐチャイルドロックが作動したと推測する。想定内だ。
実施日 20██/██/██
被験者: なし
実験内容: 生命体を使用した調理実験(愛玩動物)
実験使用物: 生きたイエネコ(学名: Felis catus)1匹 高電圧用絶縁スーツ(猫用)
結果: ハッチのロックがかからず調理不可
分析: D-672-01の時と同様にチャイルドロックが作動したと推測する。内部に生体センサーが搭載されている可能性あり。限定的ではあるがドジョウの天ぷらのように生物をそのまま加熱調理することは不可能だろう。
補遺: 製造工場特定から3か月後、SCP-672-JPを保管しているサイト-81██の郵便受けにSCP-672-JP販売業者からチラシが投函されました。内容は石抱きビビンバ風焼きおにぎりやファラリスのアイスクリーム工房と言った新商品販売を告知する物でした。製造工場が放棄されたにもかかわらず、依然としてオブジェクトの開発が実際に続けられているかはまだ直接確認できていません。製造業者特定の調査が必要と考えられます。
アイテム番号: SCP-XXX-JP
オブジェクトクラス: keter Neutralized
特別収容プロトコル: SCP-XXX-JP-2の周囲は映像と超音波を同時記録できるカメラで常に撮影し、収容サイト81██にデータを送信しています。オブジェクトクラス変更以前の収容手順は添付資料を参照してください。
SCP-XXX-JPは大規模な移動を繰り返し、また物理的な実体を持たないため、現段階での収容は不可能です。SCP-XXX-JPの習性として標高880m前後でアカマツが全体の80%占める山岳地帯に出現することが多く、その地域を財団の所有する超音波ソナーで常に監視を行ってください。SCP-XXX-JPと同様の波形を記録した場合はカバーストーリー「大雨による土石流警報の発令」を流布し、周辺住人を麓の街まで避難させてください。避難民の中でSCP-XXX-JPの姿を視認したと証言をする人物がいた場合は、財団傘下の病院に隔離し、外科手術で咽頭内部に生成された結石を除去してからBクラス記憶処理を施して解放してください(以下、この生成された結石をSCP-XXX-JP-Aとする)。
説明: SCP-XXX-JPとは山岳地帯において発生する発生した知性を有する弾性振動波です。SCP-XXX-JPは特別収容プロトコルに記載された条件に見合った山岳地帯にて一定確率で発生します。 現在は14年以上に渡って発生を確認できていないためSCP-XXX-JPは無力化されたと判断し、当該オブジェクトをNeutralizedに再分類します。
SCP-XXX-JPは発生と同時に自身を中心とした半径█㎞に40kHzの弾性振動波を拡散させます。これが唯一確認されている発生の予兆です。この弾性振動波に暴露された被験者の内、1%の人物が「山岳地帯の頂上から上空に昇って行くヘビのような生物を見た」と証言します(以下、この1%の暴露者をSCP-XXX-JP-1とする)。
暴露から1時間以内にSCP-XXX-JP-1の咽頭部において直径1cmのSCP-XXX-JP-Aが発生します。SCP-XXX-JP-Aは時間経過で拡大していき、最終段階に入るとSCP-XXX-JP-Aにより咽頭を圧迫して暴露者を窒息させます。以下にSCP-XXX-JP-1となったDクラス職員を用いて行われた観察記録を公開します。
実験責任者: 杜松博士
経過時間 |
SCP-XXX-JP-1の様子 |
SCP-XXX-JP-Aのサイズ |
0~1時間 |
目立った変化は見られず。 |
直径1cm |
1~3時間 |
会話は可能な物の、頻繁に咳き込み始める。 |
直径2cm |
3~7時間 |
呼吸が困難になり、喉の付近を掻きむしる。 |
直径5cm |
7~15時間 |
咽頭を圧迫して窒息死させる。 |
直径8cm |
15~24時間 |
骨が収縮を始め、全身が幼児程度にまで縮む。 |
直径15cm |
24時間以降 |
口頭からSCP-XXX-JP-Aを吐き出す。 |
直径20cm |
分析: 吐き出されたSCP-XXX-JP-Aの成分を分析した結果、大部分をカルシウムで形成されていましたが、その硬度は110でした。15~24時間の時に全身が委縮を開始したのも、SCP-XXX-JP-A生成のために体内にあるカルシウムを全て集めたからと思われる。
補遺: [SCPオブジェクトに関する補足情報]
私は優秀な男だ。中学・高校と成績は一番、所属していたサッカー部ではエースストライカーとして四度も全国大会に出場し、大学では日本の枠に捕らわれずケンブリッジ大学へ何の苦も無く進学した。大学では百人の部員が集うサッカー部でもキャプテンをつとめ、大学を首席で卒業し、社会に出てからも企業では研究者としてみんなから慕われ、数年の交際を経て学生時代からの付き合いだった元ミスケンブリッジの才女と結ばれた。彼女は優秀な私の遺伝子を引き継ぐのにふさわしい女性であり、結婚十周年を迎えた今となっても愛情は欠片も薄れることなく、二人の子供にも恵まれた順風満帆な人生と言えるはずだ。
誰もが夢見る「黄金人生ゴールドエクスペリエンス」を歩むこの私の耳に、いつだったか「財団」と呼ばれる世界最高のプロフェッショナル組織が存在するという噂が届いた。
その組織は創作の世界にしか存在しないような、荒唐無稽で、とても信用できないフリンジな物体を、発見次第に確保し、安全に収容した上で、研究という名目で保護する団体である。そのような常識の外にある団体から、優秀なる私に声がかからないなどあるわけがなく──
「それではこちらが最終試験会場となります」
大学卒業したて新人会社員のような雰囲気を纏った若く小柄な女性が、中学校の教室を思わせる簡素な部屋に私を案内した。
ここは都市部から車で数時間離れた山間の廃校である。どうやら財団はこう言った無人施設を買い取り、研究所として再利用することが好きらしい。外から見ればただの廃棄された施設だが、各部屋に積まれた機材は、数秒流し見ただけでも最新式だとわかる。
「君、最終試験は筆記と聞いたが、手っ取り早く全部まとめて答案用紙を渡してくれても良いのだぞ?」
「すごい自信がおありのようですね。合格を楽しみにしていますよ」
首から下げられたネームホルダーに「西海枝」と記された女性は、屈託のない笑顔で返事をした。
ふむ、いくら私の方が目上とは言え、合格すれば彼女が先輩にあたるからな。優秀なる私が礼を失するわけにはいかないか。丁寧に礼をしてから指定された席に座るとしよう。
部屋内部には私を含めて十名弱の人間が集められており、私とは違う外国籍の人間もいるようだ。どうやら財団の日本支部とは言っても、職員全員が日本人で結成されてるわけではないらしい。加えて私の半分も生きていないような少年や、私よりも目上の女性もいる辺り、本当に「優秀」な人間のみを区別なく集めているのを感じて好感が持てる。
だが私とてケンブリッジ大学を首席で卒業した才君。この中で最も優れているのは私で間違いないはずだ。
久しく忘れていた学び舎の木イスの感触に懐かしさを覚えたころ、先ほど案内をしてくれた女性がテスト用紙を抱えて教室に戻って来た。小柄な体格のせいか、答案用紙の束が一回り大きく見える。
「ふぅ、はぁ。お待たせしました皆さん。最終試験は事前に連絡した通り、数学・理科・国語・英語・社会科による基本五教科筆記試験となります。一教科の制限時間は五十分です。難しいと思いますが、最後まで諦めないでくださいね」
最初に連絡が来た時は本当に筆記試験をするとは思わなかったが、どうやら彼女が息を切らして答案用紙を抱えて来たところを見ると本気らしい。いや、一週回って筆記試験は優秀さを測るのに適しているか。
「あと、トイレに行きたくなったら恥ずかしがらずに手を上げてくださいね。では数学から始めます」
難しいと言うからどれほどの物かと期待したが、どれも拍子抜けである。問題数が多いので時間こそかかるが、落ち着いて回答すれば、時間内に満点で提出できるはずだ。開始十分ほどで一人が席を立ち、さらに五分後、一人が腹痛を訴えて途中退出をしたことに心の中で驚いたが、競争者が減って幸運と思うことにしよう。そんなことよりも目の前の答案用紙を埋めることに集中しなければ。
「……皆さん、少々失礼します」
試験監督をしていた西海枝女史が終了十分前に教室から去っていった。最初は彼女もお手洗いかと思ったが、浮かぶ表情から只ならぬ雰囲気を感じた。何かあったのだろうか?いや、他人など気にしてはダメだと自身に喝を入れ直し、最後の設問に取りかかった。
『緊急警報発令。緊急警報発令。Safeクラスオブジェクトの収容違反が発生しました。館内スタッフは速やかに避難してください。繰り返します。緊急警ほ──』
最後の一問を残し、施設全体に耳障りでけたたましいサイレンが鳴り響いた。
収容違反──財団が確保している異常物品が何らかの事故により、その保護を破る事態と聞いている。
私のこめかみに一すじの汗が流れ落ちたが、最後の設問が回答できていないことで冷静さを取り戻した。Safeクラスと言えば最も安全なクリアランスオブジェクトと聞いている。回答を記入してから退出する時間くらいはあるはずだ。検算できないのが辛いが仕方ないだろう。
設問を書き、答案用紙をざっくりと見直してから席を立った。大丈夫だ。避難経路は一応把握している。それほど広い施設ではないし、迷うことなどありえ……
教室を出て最初の角を曲がった時、背後から足音が近づいてきた。
私は反射的に音がした方向へ振り返る。するとそこには仮面を被った人物が、無言で立ち尽くしていた。
その仮面はトランプのジョーカーを思わせる意匠が施されており、当然表情はうかがい知れない。だが着ている服から判断するに、つい十分ほど前まで教壇で試験監督をしていた女性のはずだ。
『緊急警報発令。緊急警報発令。Safeクラスオブジェクトの収容違反が発生しました。西海枝捜査官がSafeクラスオブジェクトに暴露しました。西海枝捜査官には発見次第終了措置を取り行ってください。繰り返します。緊急警報発令。緊急警報発令。Safeクラ──』
目前の世界全てが淡いイカスミ色に変わる感覚に捕らわれた。全身の危機管理細胞が警鐘を鳴らしているが、足先が一寸すら動かない。唾が喉をゴクリと通るよりも早く、彼女は腰元からピストルを抜き、頭部に狙いを定めた。
殺される。私の優秀な脳細胞は生還するための最善策を大量に掘り返そうとしているが、優秀であるがゆえに全てが不可能であると回答してしまった。私にできることなど、脳みそがなるべくキレイに飛び散り、妻が贈ってくれたネクタイが汚れないように祈るのみだ。
引き金を引き絞る刹那の瞬間すら、私には無限の時間に思えた。
「お疲れ様でした。試験終了です」
ピストルの先端から飛び出たのは、大量の星条旗と紙吹雪だった。
「驚かせてしまって申し訳ございません。実は私に捕まった人から試験は終わりなんですよ。これも含めた上で結果発表と言いますか……まぁつまりそういうことです」
被っていた仮面をずらして申し訳なさそうに恐縮する彼女を見て、私は全身を停止する呪いから解放された。
死を覚悟したのにただのドッキリだった時、どう言った反応をすれば良いのかなんてわからない。そんなことは今までの人生で学んで来なかったからだ。だが私はどうにかして虚勢を張るため、涼しい顔で歩いて見せようと思った。しかし、
「どうされましたか?もしや何かお怪我を」
涼しい顔だけは崩さなかったが、無様に腰が抜けてその場で尻もちをついてしまうだけだった。
「いや、大丈夫だ。ケガはないが、すまない。少々手を貸してくれないか?」
彼女はにこやかな笑顔を崩さず、情けない私の手を取ってくれた。
これが財団か。私の優秀さなど、ここでは凡庸でしかない。でも、だからこそ、ここで研鑽を積みたい。
それは私が人生で初めて噛み締めた「敗北」の味と、大いなる壁に挑戦したいという「渇望」の味でもあった。
「それでは最後に視力検査を行います。こちらの部屋でお待ちください」
「財団職員にとって「優秀さ」ってのはそこまで重要ではないんだよ」
試験終了の数日後、西海枝は「いつもこんなことやってるんですか?」という言葉を、直属の上司である杜松博士にぶつけた。
今回の試験は言うならば鬼ごっこだ。研究所内での収容違反を想定し、鬼役となる現役捜査官に捕まらずに施設を出た人物のみが、晴れて財団に雇用されるという内容だ。生真面目な西海枝にとって、参加者を騙すような鬼役はお世辞にも心が弾むような任務ではなかった。
そんな彼女の冷ややかさを纏った視線から逃れるように、杜松博士は今回の職員試験内容を補足した。
「と言うかね、そんなのは「当たり前」なのさ。僕たち研究者はテストで満点なんて当たり前で、君たち捜査官も得意分野においては世界トップレベルだろうからね。そもそもあの試験参加者は、全員財団の雇用基準を満たしていたはずだ」
「それなら全員雇用すれば良いのではないでしょうか?どこの部門も人手が足りないと嘆く意見を聞いていますが」
西海枝自身が所属する捜査部門も、杜松博士の研究部門も、どこも人手が圧倒的に足りない。だからこそ自身が鬼ごっこの鬼役という、集めた一般人を騙すような仕事をするしかなかった。まだ経験の浅い新人捜査官であるが、好んでやる気にはなれなかった。
「じゃあなんで君が最初に捕まえた優秀そうな彼が不合格で、最初と次に退出した二人が合格かというとね、単純な話、満点以上を取っていたからだ」
杜松博士はデスクの引き出しから二枚の答案用紙を取り出した。それが先日の雇用試験で合格した参加者の答案用紙であるのはすぐに分かった。
「聞かれると思ってね、あらかじめ人事部に頼んで答案用紙のコピーを貰って来た。まず最初に退出した彼だが、多分気づいていたんだろうね。一番難しい問題だけを解いて、とっとと退出。何かあると感じて適当なタイミングで逃げるべきと判断したのだろう」
出題した問題の中で、最も苦戦するであろう一番最後の物だけはキッチリと記述し、名前を書いて提出されていた。これなら最初の十分で退出できたのも頷ける。
「腹痛を訴えた彼は途中までしっかり書いているが、時間経過とともに字が歪み始めている。理由とか無く、本当に腹痛で途中退出せざるなかったんだろうね」
腹痛を訴えた彼は、西海枝が残りの参加者を確保した後、申し訳なさそうにトイレから現れた。サイレンこそ聞こえていたものの、どうしても腹痛が治まらず、仕方なくトイレ内部で待機していたらしい。これには作戦本部も処遇に困ったが、「収容違反から逃れるために隠れてやり過ごした」と言うことで合格扱いとなった。
「財団職員になることが幸運かどうかは置いといて、彼は幸運にも収容違反の現場には遭遇せずに、事件をやり過ごせた。つまり彼は運が良かったんだよ」
「「判断力」と「運」が合否を分けたと言うのですか?そんなの全員が全員必要基準を満たしてるわけが……あ」
そこまで言ったあたりで、西海枝は合点が言った。そう。つまるところそういうことなのだ。
「その通り。こう言ってしまえば財団の門戸を叩く人全員に申し訳ないけど、財団職員になれる人なんて生まれた時から決まっているとしか言えないんだよ。陳腐だけど運命以外に説明できないかな」
財団雇用試験に参加できる時点で既に雇用基準を満たしているならば、残りの判断基準は「本人の資質」でしかない。
「財団職員である僕らが扱うのは常識外の異常物品であるオブジェクトだ。暴露して死ぬくらいならそこで終わるだけまだ優しい。オブジェクトの中には死ぬこともできない物や、死んでからが本番のオブジェクトだってある。常に極限状態の財団において、収容違反を起こさないよう最善を務められる「判断力」と、偶然助かるような「幸運」こそ最も重要な要素だと僕は思う」
そこまで言って杜松博士は答案用紙のコピーを部屋の隅に備えられたシュレッダーにかけた。財団職員の個人情報なんて数千万単位で闇取引されるほどに貴重な物だ。くしゃくしゃに丸めるだけでは足りない。この後、財団所有のごみ処理場で完全に処分されるはずだ。
「同じ部屋にいる同僚職員に自分の命を預けられるか?財団職員選考基準なんてそれ以外には無い」
「ところで杜松博士の時ははどんな試験内容だったんですか?」
「当時、新作だったサメ映画『恐怖!人喰いサメ係長〈サービス残業に鉄槌を〉』に登場するサメ係長をオブジェクトに見立てて報告書を書けだったかな。西海枝くんは?」
「三日以内にカレーライス十人前作れでした。アラスカで」
「やっぱり絶対おかしいよ。この職場」