さくさくさくらの砂遊び

とある海沿いの公園に、一人の男の像がある。
彼は生まれてこの方、一度も瞬きをせずに世界を見続け、嘆き悲しみ、人々が、世界が幸せになることを誰よりも願っただけのただ一人の男だった。



彼は孤独を感じたことは無かった。
風が囁いてくれるから。

寒さを感じることも無かった。
人の暖かさを知っていたから。

生きていることの素晴らしさの意味を失ったこともなかった。
彼の目に映る全ての生物達が、命を輝かせて彼に訴えていたから。


だから彼は嫌った。
争いを。妬みを。僻みを。
理不尽な理由で命が奪われることを彼は何よりも嫌った。
この世にあるべきなのは、正当な命のやり取りと、温かい感情だと、彼は思っていた。

だがその為に、自分には何ができるかわからなかった。
世界を余すことなく見続けた彼でさえわからなかった。
だからその"答え"を探す旅に出た。


最初に出会ったのは1匹のトカゲだった。

トカゲは人間が憎いと言った。
己のことしか考えず、私利私欲の為に暴れる人間という生物が心底憎いと。
彼はトカゲに、「それを理由に殺しをしたって、何も変わらないんじゃないか」と伝えた。
トカゲはそれでもいいと言った。
自分が満足する為だけにやっていることだから、それでいいのだと。

きっとトカゲは、自分が何よりも人間に近いから憎くて堪らないのだろうと、彼は納得した。

ベッドで寝ていると、暖かい風が頬を撫でた。

生きるのに最低限必要な物しか置いていない無機質な部屋にある、鉄格子のついた1つだけの窓の隙間が開いていたらしい。
その隙間から鶯や雲雀の囀る声が聞こえる。
眠い目を擦り眼鏡をかけて、硬いベッドから腰を上げ、ゆっくりと味わうように風を吸い込みながら外を見た。

「あぁ、もう春が来たのね。」

まだぼーっとする頭で思ったことを口に出してみる。
ここに来てから曜日感覚はもちろん、最近は季節感覚まで薄れてきた。外にいた頃は季節が変わる事に公園や植物園で大好きな写真を撮っていた。特に星が好きで、満月や新月の日の夜に山に登り、一晩中眺めながら写真を撮るのが生き甲斐で、一番好きな時間だった。
だがもうそれをすることは二度とないだろう。なんたって死刑囚、私はDクラス職員なのだから。




味のしない脱脂粉乳と焼いていない食パンを貪り食っていた時、ドアがノックされた。

「それを食べ終わったら、実験をやるのでちょっと急いで食べてください。」

ただでさえ美味しくないご飯が、もっと味気なくなった。
ここに入ってから約2年。7、8個程の実験台にはされてきたが、今回で死ぬんじゃないのかという不安だけはいつまで経っても消えることは無かった。

無理矢理飯を詰め込み、監視員に連れられ実験場へ向かった。いつもは何に使うかすらわからない機材だらけの実験室だったが、今回は畑のような場所だった。私以外にも2名、実験に使われるらしいDクラス職員がいた。20代くらいと40代くらいの男性2人だ。

桜が満開だ。だがどこか普通の桜……いつも見るソメイヨシノとは違っていた。樹皮が薄灰色で、花びらがうっすらピンクのかかった透明だったのだ。
その美しい風景を眺めている時、私たちを連れてきた職員が言った。

「今日から2週間ほど、ここで花びらを拾ってもらいます。鋭いので気をつけてくださいね。」

桜の花びらを拾うだけの作業か。こんな単純でいいのだろうか。なんにせよこれだけ美しいものを、外の新鮮な空気と太陽の光を浴びながら作業ができるのは有難いことだ。嬉々として花びらを拾い始めた。


「すごく綺麗 ……。こんなに透き通っててほんのりピンク色で薄いのに、小傷一つ付いていない。」


まるで上質なステンドグラスの一片のようだった。一つ一つが芸術品だった。だが丈夫な分鋭く、職人の研いだ柳刃包丁の如く切れそうではあった。
遠くのほうで男性職員達が話している。どうやら指を切ったらしい。と言っても処置をする道具を持っていないので、申し訳ない気持ちを抱えながら作業を続けた。


作業2日目。

どんよりとした曇り空。今にも雨が降り出しそうな天気だった。太陽の光が無いから、花びらが見つけにくく何枚か踏んでしまった。が、それでも欠けることなく回収出来た。強度に感心した。

「この花びら、集めて何に使うんだろう……。」

担当職員に聞いてもきっとはぐらかされるだけだろうと思い、疑問を心の奥にしまった。

作業3日目。

昨日の雲が雨雲に変わってしまった。春特有のシトシトと降る静かな雨。まるで自分とこの桜達だけを残し、世界から切り離されてしまったような静けさ。
だがどこか心地良かった。このまま、この妖艶な桜と共に生きても良い気さえした。この木と、美しい月を一緒に眺めたいと思った。
ダメだと言われるだろうと思ったが職員は「私が見ている範囲で眺めるのなら、良いですよ。」と言ってくれた。
明日の夜、晴れていたらそうさせてもらうことにした。

4日目。

雲ひとつ無い晴天。
どこまでも続く青い空と、澄み切った空気。ただ少し肌寒かった。湿度が低いせいだろうか。このまま日が沈むまでこの気温と天気が続いてくれればと願いながら花びらを拾った。

待ち侘びた19時。
幸いにも晴天と低湿度が続き、雲もないまま夜を迎えられた。星空と桜を眺めるには最適だ。
監視員に見張られながら、夜の桜畑へ向かった。

想像以上の美しい光景が目の前に広がっていた。

不意に、ビュウと突風が吹いた。この季節は午後になると風が吹くから注意しろと言われたのを忘れていた。
暖かく柔らかい風に乗った、小さな美しい刃が私の体を無造作に引き裂いた。首からプシュっと音が聞こえた。頸動脈が切れたのだろう。
倒れる最中に男性職員2人が目に入った。私に向かって一目散に走ってきている。
その刹那、風が吹き2人共目の前で引き裂かれた。

どれだけこの花びらが鋭利かは4日間で嫌という程学んでいる。あんなに鋭いんだから、止血処置をしたって血は止まらないだろう。それに、初日と同じようにもちろん処置をする道具など無い。

ここで自分の命が終わることを確信した。

倒れた場所には偶然、木の根があった。それを枕にし、木を見上げる。
どこまでも高い青空と、美しい桜。花びら同士が風に揺られ、ぶつかる音。そして風の音。自分の血が流れていく感覚。冷えていく末端。しびれ。
薄れゆく意識の中、ぼんやりと思ったことを口に出してみた。


綺麗な桜の木には死体が埋まってる。それはきっと、血を吸っているからなのね。」


こんな罪人の血で、もっとこの桜が輝けるなら。
いくらでもくれてやる。そう思いながら、私は意識を手放した。

↑の原型

適当な中身