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「おまえは実在していない」
 唐突な女の発言に、男は書きものの手を一度中断して、顔を上げた。乾燥しきっている鮮やかな七色の髪と、ひどく落ちくぼんだ目、ぱりぱりとひび割れた唇から漏れ出てくる言葉はか細く、だが劇薬のような音階を持っている。兎歌八千代と自称しているこの女は、健全で文化的な生活からは程遠い次元で生命活動を行っていた。元サイト管理官で、いくつかの機動部隊で幕僚を兼任し、しかも医療部門にも籍を置いている。経歴は輝かしいエリートのそれだが、この容貌を見てその内容を信じる気になれる人間は一握りとて存在しないだろう。
「すみません、もう一度よろしいですか」

「0か」

「あの、申し訳ないのですが」
 白い取調室の中には、この兎歌という女と男の二人きりだった。女の情報はどれもこれもが欺瞞で満ちており、したがって男は目の前の狂人に、自らのことを語らせねばならないのだった。それは困難を極める作業であり、ゆえに、この取り調べ中に彼の手にあったペンの動きは、紙面に何も刻んではいなかった。
 真っ白の紙タブラ・ラーサ。男はいま女が発した数字を書き取ろうと、左手で線を引いた。白い紙は依然として、その純粋性を誇るばかりであり、しかしたしかに、ペン先は紙の感覚を捉えていた。
「なんだ」
「ようこそ」
 紙の上に、虹色の毛が落ちていた。身を乗り出していた女は、白目のほとんどなくなった瞳で男の姿を映しこんでいる。身を仰け反らせた男は、そこにしていたはずの、女がしていた香水の匂いが消えていることに気が付く。いや、あるいは、そんなものは初めからなかったのだろうが。
「わたしの名前は」
「名前……」
 男は手元のブリーフケースを取り寄せる。眼前の狂人について事細かに──しかし欺瞞である──記された情報が載っていたページなどは存在せず、ただ空欄の人事ファイルだけがそこに綴じこまれていた。しかし、そもそもここにあったのは空のページだけだったはずだ。なぜ、そこに情報が載っているなどと勘違いしていたのかが、男にはわからなかった。
「思い出せ」女、だったかもしれないし男だったかもしれない相手は、男に向かってそう言った。青い色をした錠剤を取り出して、は、もう一度同じ言葉を発する。「思い出せ」
 なにを、と問い返す男を見て、人間は笑っていたかもしれないし、あるいは怒っていたかもしれない。白い髪と白い目、白い錠剤。なにを忘れているというのか、と男は目の前を睨み付けた。
 そこには空の椅子があった。
 
 

 午前七時。汗臭くなってきた布団の中で、海野一三は目を覚ます。睡眠周期を感知して優しい音楽を流してくれるアプリケーションが、彼の見ていた悪夢を優しくせき止めていた。一度固めた決意が腐らないうちに、男は掛布団を脚で下へ追いやった。暖房を切っていたため、部屋はひどく冷却されている。
「………………」
 両足を順にベッドから滑り落とし、絨毯の柔らかい感触をよく確かめる。まだよく目が開かないが、秒速五センチメートルほどの速さで前進を始める。電子ポットに水を適当に入れてスイッチを押し、テレビをつけて女子アナウンサーのうるさい高音を脳に取り込む。
 椅子に座ると、背もたれが少し不気味な音を立てた。そろそろ買い替え時だが、はたしてどこで買ったものか、そもそも時間は、と出不精特有の言い訳探しをしているうちに、電子ポットが声高に湯が沸いたことを主張し始める。
「………………」
 ティーパックをカップへ適当に放り込み、角砂糖を四つほど落とす。コーヒーフレッシュを切らしていたことに気が付き、眉をしかめる。パックを上下に揺らしながら撹拌し、そのまま口に運ぶ。熱すぎて味がわからないが、だんだんと意識がはっきりしてくる。
 意識とともに、空腹感も形を帯びてくる。額に皺を寄せながら立ち上がり、冷蔵庫の中から結露した食パンの袋を取り出す。適当に二枚取って、オーブンの中へ置き去りにする。六分ぐらいにセットし、今度はマーガリンとつぶあんを取り出した。当然まだ焼けていないので、塗るために用意したスプーンをティーカップの中に突っ込んでかき回し始める。透明な砂糖の粒子が徐々に溶けて消え、満足したところでオーブンを止めに行く。
「……あむ」
 海野には最近ひとつの発見があった。歯ブラシはテーブルに置いておくとよい。歯磨きをするタイミングを早めれば早めるほど、歯を磨き忘れる確率が減る。歯に引っかかっていたつぶあんの皮を吐き捨てて、彼は三日前と同じネクタイを首に巻いた。
 チェスターコートのボタンが外れかかっていることに気が付き、どうするか数瞬思案して、結局どうもせずに仕事鞄を取り上げる。オートロックの玄関は指紋認証や静脈認証を必要とするため、両手首をどこかに置いてこない限り家から閉め出される心配はない。
 施錠を確認して、海野は振り返る。そこには灰色の壁が迫っており、似たような玄関のドアが延々と左右に続いていた。サイト-████職員居住区第一レベルの東Aブロック九〇九号室。地下一階に存在する居住区から、さらにその十数メートル地下に潜った場所に彼の職場は存在していた。普通のペースで向かえば一五分ほどだが、途中で昼食を買うために遠回りをする必要がある。
 歩き出してから三分ほどで、忘れ物をしていることに気が付いた。
 朝の一錠を服用すると、ようやく彼の一日は始まる。腕時計を見て、次に足元を見た。壁と同じ色をしていたはずの床は、幾多の人間に踏みつけられたことによって黒く変色している。海野は走ることにした。昼食を買う時間を四分と仮定しても、歩いていては遅刻だった。
 居住区からは何本ものエレベーターが出ており、ほとんどの職員が列をなしてそこに並ぶ。抱えている案件によっては、緊急性が認められて待ち時間ゼロの直通軌道に乗ることができるというが、海野はついぞそのようなものを目にしたことがなかった。五分ほどで自分の番が来て、床に引かれた線の通りに並ばされる。一度に百人を運べるというエレベーターは、大型機械の搬入などにも供されることがあった。
 だれかがずっとくしゃみをしていた。知り合いらしい女子職員たちがひそひそと言葉を交わす以外、誰も口を利こうとはしない。地下で人工太陽光を浴びながら一年中生活する内勤職員たちにとってみれば、いまが冬かどうかなどはどうでもよさそうなことだった。三六五日つねに摂氏二四度、湿度五五パーセントに保たれているサイトでは、季節風邪もインフルエンザもあまり目にすることがない。
 女子職員のひそやかな話題の対象は、エレベーター内に紛れ込んでいた特異性のある職員のようだった。居並ぶ職員たちの間からのぞいている白いくちばしは、二一世紀に生きる人間がするにはいささか時代錯誤な格好だった。この職員が目立つのはそのペストマスクだけでなく、このエレベーターで唯一白衣を着用しているということもあった。管理部門フロア行きのエレベーターに、白衣を着た科学者が乗り込むことはほとんどない。財団は職員個人の服装などにいちいち注文を付けるような組織ではなく、単に彼──彼女──の趣味という可能性もあった。だがこの職員が注目を浴びている最大の理由は、服装などではない。職員全員が首から提げ、左胸に留めているIDタグ。普通の職員のものは白地に黒、顔写真という構成だが、特定雇用職員──特異性を持つ職員をオブラートに包んだ呼称──のそれは違う。一目でそれとわかるように、目立つ赤が地色に使われている。
 地下八階に着くと、一斉に職員たちがエレベーターを降りだした。このフロアにかぎらず、大規模サイトのオフィスというのは、ひとつの街のような様相を呈していることが多い。フロア間もセキュリティ・クリアランスの関係で移動が困難な場合があるため、各フロアに必ず購買部や医局が存在するのだ。海野は小走りに、その中のひとつに入る。
 コンビニのような店舗でオールドファッションのドーナツを買い込んで、海野はふたたび走り出した。管理部門の一角、誰も関心を払わない総務部署の中に彼のオフィスはある。横幅二〇メートルほどの目抜き通りになっている一直線の通路に沿って、管理部門の主要オフィスが立ち並んでいる。出勤する職員の群れは、左右へ別れて徐々に数が減っていく。コンビニに入っていた数分のうちに、あの特異性職員の姿は見えなくなっていた。
 会計部門の角を通ろうとしたとき、わずかな匂いが彼の足を止めた。脳髄のどこかを、的確に刺激してくる錆びた匂いだった。左胸の重い感触を思い出しながら、オフィスの間にある狭い通路へ足を踏み入れる。
 それが人であるということはすぐにわかった。海野が先ほどから気になっていた水音も、そしてなんの悲鳴もしなかった理由も、すべては床に転がる遺体が雄弁に語っている。白かったペストマスクは、切り裂かれた喉から漏れた血液で真っ赤に染め上げられている。仰向けに倒れている姿は、抵抗する暇もなく迅速に殺されてしまったことを示している。だがその仕事ぶりはプロというには程遠かった。
 血だまりが版図を拡げていく中、点々と続く小さな斑点の先に凶器のカッターナイフが落ちている。そしてその横に、へたりこんで遺体を見つめている犯人の姿があった。海野は警戒を解かずに、血と同じ色をしたIDタグの名前を調べる。黒埼 蛇。会計部門の主任とある。生体情報をつねにモニタリングしているタグは、すでにこの職員に起こった悲劇についても把握しているだろう。あと数十秒のうちに、ここには保安部門の職員たちがやってくる。
「何にも触れないでください。そこから動かないで」
 海野は、犯人に対してできるだけ事務的な発音を心掛けた。小さくうなずいた職員の左胸には、彼と同じ白いIDタグが付けられている。
「わたしは内部保安部門の監察官です。あなたを逮捕します」
 ぼうっとした様子で手錠をかけられた犯人は、保安部門に引っ立てられるまで、ずっと遺体を見つめていた。いったい何を熱心に見つめているのか、その時の海野にはわからなかった。
 だが、のちにふと理解した。あれはIDタグを見ていたのだ。

 

「イヤな事件やなあ」
「殺人にイヤじゃない事件がありましたか」
 水槽に飼われている爬虫類と、妙齢の女性が会話している。サイト-████の医局は、解剖される遺体のための霊安室を持っていた。殺された黒埼という事務官の遺体の検分のため、サイト管理官のエージェント・カナヘビと、内部保安部門副管理官の串間小豆が揃って現れたのだ。
「出会い頭に殺されたようです。犯人は黙秘を続けており、動機はわかっていません」
 内部保安部門の制服に身を包んだ海野は、最近になって官僚的発音がようやくその咽頭になじんできていた。三日に一度は着ている灰色のシャツは、彼の実年齢を多少若く見せることに成功していたが、しかしそれは必ずしもプラスに働く要素は考えられない。
 すくなくとも内部保安部門ではそうだった。ここにいる職員には──少なくとも彼が認識している限りにおいて──三〇歳以下の者はいない。合理性を重んじる財団組織は有史以来年功序列を採用したことなど一度もなく、信用を判断するのに最も有用なのは時間なのだということを理解しているに過ぎない。だから職員たちは、若作りをする必要を認めてはいなかった。この部門で年を重ねていくということは、つまりは財団からの長年の信頼を意味しているのだから。
反人型異常実体主義者アンチ・メアリニストという線はないのかしら」
 串間小豆 内部保安部門副管理官においては、そうした職員たちの風潮に対して抵抗を見せている数少ない人間の一人だった。部下からの報告を聞いている最中、目は手元のマニキュアへと向けられている。目の覚めるような赤い口紅と、扇情的なオレンジのアイシャドウは、彼女の加齢に対する挑戦の表れだった。
「特異性を持つ職員の周辺はあらかた調査されていますが、そういった報告はありません」
「見逃してたとちゃうん」
 喉を裂かれた遺体は、口が二つあるかのようにぱっくりと傷口が開かれていた。エンバーミングの処置はまだかなり先のことで、あと数日はこのままにされている。カナヘビはちろちろと舌を出したり引っこめたりしていたが、やがて背を向けてしまった。遺体を下げさせたサイト管理官は、強い口調で海野と串間に告げる。
「動機の解明、それから再発防止を徹底してや。今回の件は徹底的に隠す。諸知に頼んで、管理部門全体に記憶処理を頼むわ」
「了解しました」
 自律走行式の水槽がふわふわと浮かびながら、部屋を後にした。その後ろ姿を見送っていた女は、礼の姿勢を緩慢に崩して保管庫へ寄りかかる。懈怠さを鼻から吐き出し、年上の部下の方をちらと見やる。
「なんでしょうか」
「あんた、第一発見者だったね」
「はい」
「まあ、いいわ。この件はわたしとあんたでやる。いい」
「はい」
 内部保安部門の女王陛下は、たばこが吸いたいと言い残すとさっそく部下を置いてどこかへ出て行ってしまう。一人残された海野は、検視官にもう一度いいですかと遺体を見せてもらうように頼むことにした。鷹揚に答えた検視官は、金属製の引き出しに手をかけた。黒い死体袋は、成人男性のものにしては小さかった。ジッパーが下ろされると、死臭が一気に漏れ出てくる。
 気道に風穴を開け、あわや頸動脈に達しようというかという深さの裂傷には、見るからに怨嗟が込められている。呆然としていた犯人の様子から察するに、衝動的な犯行である可能性は十分にあった。だが、あのタイミングで人気のない角に陣取り、カッターナイフを準備していたとなるとそれは計画的殺人である。妙な事件だった。状況はちぐはぐで、なにひとつとして一貫性がないように思えた。
 左胸からは、もうIDタグは取り外されていた。検視官は黙って海野の観察を見守っていたが、聞かれると流れるように説明を始めた。黒埼 蛇の特異性は周囲に被害をもたらす自身の声であるという。咽頭部が狙われたのはそれが理由なのでは、と検視官は自分の意見を最後に添えた。その仮説は非常に説得力があったが、海野にはどうにもこの遺体そのもの、事件そのものに違和感が付きまとっていた。
「ありがとうございます。おそらく次会うときには顔を覚えておいででないでしょうから、このIDタグで覚えておいてください」
「はあ……」
 困惑している様子だったが、検視官は海野のIDを覚えるように顔を近づける。そこには目立たない男の肖像と、管理部門総務部という仮の所属が書かれている。海野は不意に、このタグは何色に見えますか、という質問をしたくなった。実際に口に出す前に検視官は顔を離し、男はおかしな考えを振り払うことに成功した。
「変わったお名前ですね。海野一三いつみさん」 

 

「つぎは諜報機関のエージェントですか」
 血液は大体拭き取られた後だった。エージェント・ユーリィは逆上した同僚によって、頭蓋に巨大な穴を穿たれた。数回殴打された痕跡が残されており、相当の殺意をもって襲撃を受けたことがうかがえる。殺害時の映像が残されており、海野たちはすでにそれを確認していた。
「犯人は同僚といいますが、正確には収容スペシャリストですね。工具を持っていたのは収容房に使う装置を自作していたとかで……」
「つまり今回も衝動殺人ということですね」
「にしては殺意が高すぎるようにも思えるけれど」
 串間はちょっと値引きされているブランドでも見るかのようなフランクさで、惨殺死体に顔を近づける。エンバーミングはまだ終わっておらず、遺体の持つ臭気は防腐剤のそれよりも死臭が上回っていた。つぶさに亡骸を確認し終えると、続いて検視官が持っていた資料に目を通す。
「とりあえず昨日の事件とはさほど関連はなさそうね」
「昨日の今日で二人も……本当に偶然ですかね」
「なにかとストレスの多い職場じゃない」
 遺体を前に実りの少ない会話をしている監察官たちは、背後から運ばれてきた銀の台車に気付くと眉目を曇らせた。現場の遺留品ということだったが、その数が想定よりも大量だったためである。犯行現場がオフィスだったと説明を受けたが、諜報機関出身の海野からしても、この量は多過ぎだった。
「帽子ですか」
「本人の趣味のようで」
「現場保存の基本からやり直して来いと保安部門に注文を付けてきて」
 ジップロックで封されている袋をいくつか取り上げると、ふいに海野の手が止まった。ゆっくりとそれを台車に戻すと、「……串間さん」と静かに振り返った。「共通点があったかもしれません」
 赤いIDタグが、彼の目の前に安置されていた。副管理官は小さくうなずき返して、携帯を取り出す。この事件が反人型異常実体主義者によるものとして、本格的に扱われ始めた瞬間だった。

 

「凶器はペンでした」
 ジップロックに入れられたペンを掲げた後、海野はトレイの上にあった遺留品を次々と説明し始める。黙って聞いていた串間とカナヘビは、最後のひとつが終わるころには苦虫をかみつぶしたような表情に変わっていた。今回の事件もまた、目撃者多数の衝動殺人ということですぐに犯人が捕まった。
 そして被害者もまた、特異性職員である。針山栄治は氏名を覚えてもらえないという特異性を持ち、これが原因で厚生部門の職員と口論になった。ヒートアップした職員は手近にあったペンを眼球に突き刺し、両手で押し込んだ。ペンの形をした強い殺意は前頭葉を破壊し、瞬く間に針山は絶命した。
「事件の隠蔽については、すでに記憶処理部の諸知博士に依頼しました。三時間後には厚生部も通常の職務に戻ります」
「背後関係は洗ったんか」
 サイト管理官はほとんど被害者に対して無関心な風を装っていた。いま彼の小さな頭の中にあるのは、この件によるからの追及への懸念がほとんどだった。海野はそのことについて、いまさら批判的にはなりえなかったが、しかし自分が殉職した時の反応を想像しないではなかった。
「AICによる映像監視・分析ではやはり衝動殺人という以外に言いようがありません」
 下からまぶたが上がってくるのは爬虫類の特徴である。視線は海野から横にいる串間へと向けられ、当の彼女は小刻みに首を横に振る。そこにはしばらくの沈黙があり、やがてドアが開かれる音によって打ち破られた。長い長い三つ編みの女は、沈痛な面持ちでうつむいている海野たちを見て、思わず立ち止まる。
「諸知です、あの、よろしいですか」
「ああ、ボクが呼んだんや」
 いかにもうさんくさいものを見る串間の目つきに、カナヘビがフォローを入れる。サイト-████医療部門記憶処理部長──つまり立派なサイト幹部の一人である。サイト内での記憶処理活動のほぼすべてを統括する医官は、柔和な微笑みでもってカナヘビに挨拶をした。中性的な顔には丸渕眼鏡がかかっており、人によっては一種ひょうきんな印象さえ抱かせる。年齢も詳しくは知られておらず、とにかく三〇は行っていないだろうというのが大多数の見解だった。
 徹頭徹尾、人に警戒感を抱かせない。これが諸知博士から受ける印象としてはもっとも大きいものである。ゆえに串間は、この医官に生理的な嫌悪感を感じていた。職業病と換言することもできる、その程度のものにすぎないが。
「テンプレートー9447というミーム・テンプレートが最近アメリカ支部の科学部門の治験を通過したのですが、今回の案件にこれが役立つのではないかと思いまして」
「どういうものなの、それ」
 腕組みをしている内部保安部門副管理官は、新技術に対する懐疑論者のような態度でいる。諸知博士はそれを一ミリたりとも気にすることなく、こんこんと説明を始める。テンプレート-9447に付された推奨される使用目的は「職員間の信頼感向上」であり、すでにアメリカ支部のいくつかのサイトで効果が実証済みであるという。
「いくつかのメディアでミームを展開しますが、特に外科的な施術や投薬は必要としません。管理部門と内部保安部門の認可さえいただければ一両日中に準備を整えます」
「どうやろ、キミらが根本的な解決をするまでのつなぎとしては悪くないと思うんやけど、ボク」
「われわれから反対することは一つもありません」
 女はそう言うと、内ポケットの煙草をまさぐり始めた。海野は上司が苛立ちを抑えようと努めていることに気が付き、自然にドアの方へ足が向いた。カナヘビはそういうことなら、とただちに取り掛かる旨を諸知に伝え、その場で解散を宣言する。
 忠実なる部下は串間のためにドアを先に開けようとしたが、爬虫類は思い出したように彼だけを呼び止めた。その場の視線が彼に集められたが、数秒としないうちに部屋には二人だけが残された。カナヘビは水槽を彼の目の前まで移動させると、その胸のIDタグを検分するように見つめていた。
「本物そっくりに見えますか」
「冗談ヘタクソやな自分」
 マニピュレーターがIDタグから離れ、サイト管理官の視線は海野の顔に向けられた。印象が極めて薄く、たとえ数年来の知己でも写真を見なければ思い出せないほどの顔。それは立派に特異性として処理されるべきはずのものだったが、彼のIDタグは通常のそれと同じく、白いものだった。
「諜報機関から移ったのが何年前や」
「もう五年になります。監察官になったのは三年前からです」
 そうか、とカナヘビは驚くふうもなくうなずいた。爬虫類が人間のリアクションをまねている様子は、はた目から見るとどこか微笑ましいものだった。だが中身が老獪な官僚と知っていれば、単に不気味さの方が先立つ。
「もう慣れてもええ頃やろ。その白いID」
「ええ……」
 海野の前職は諜報機関のケース・オフィサーだった。その顔の双眸失認を惹起する特異性を見込まれ、内部保安部門へ籍を移したのが五年前。そしてそのとき、彼はそれまでの経歴の一部を捨てることになった。人事ファイルに登録されている名前を変え、特異性に関する情報もさらに機密の奥深くへとしまいこまれた。彼のIDタグからは赤色が抜け、正常を表す白色になった。
 それだけで人からの扱いがかなり変わることを、海野は知っている。
「どう思うね。今回の事件。ボクなんかいまさら命を狙ってくるやつが一人二人増えたところでかまへんけど、こうも無軌道に続くとちょこっと肝が冷えてくるな」
「とても違和感があります。財団日本支部の長い歴史を見ても、三日間連続で殺人が、しかもすべて別々の犯人によって特異性職員が殺されるというのは、珍しい類なのでは」
「キミも狙われると思うか」
「……わかりません。監察官になった後のわたしの特異性を知る人間はごくわずかですし。ここまでの犯行の様子を見るに、もしかするとこの胸の」
「赤いIDタグが殺人の原因と言いたいんか。特異性職員と普通の人間の区別がつかなければ、事件は起こらなかったと」
「可能性は、否定できないのではないかと」
 ふむ、そうかね、とサイト管理官は会話を一旦打ち切った。素直に引き下がった海野は、カナヘビの様子をうかがっている。カナヘビの水槽にはIDタグが印刷されており、その色はやはり赤色のそれであった。
「そういえば、反ミームというらしいな」
「……はい?」
「海野クンの顔のような特異性を、そう呼ぶんやと。覚えられない、忘れられるもの」
「初めて聞く言葉ですね。それを専門に研究している科学者が、このサイトにもいるんですか」
「いや、冗談みたいな話やけど、反ミームを研究してるやつは大抵キミみたいなやつらしいね」
「というと、誰の記憶に残らないような人間ということですか」
「そういうことになるんやろうな」
 諸知が言うとった、と付け加えると、サイト管理官は尻尾を振った。もう行け、という意味と受け取った海野は、会釈をしてその場を去る。廊下に出ると、串間が壁に寄り掛かって待っていた。
「行きましょう、聴取まだ続いてるらしいから」
「はい」

 

 翌日。いつものように午前七時に覚醒した海野は、目覚ましを鳴る前に止めることに成功していた。天井のスピーカーから、急にペール・ギュントの『朝』が流れ出している。全サイト的な放送のようだが、にしても急だった。音量をゼロにはできないので、海野はしばらくベッドにこしかけて放送が終わるのを待っていた。
「こちらはサイト-████厚生部門です。本日より、職員同士の信頼感向上を図る『信頼週間』が始まります。……」
 なるほどな、と監察官は納得して立ち上がった。諸知が何重にも仕掛けた信頼感を増幅させるミームの投与には、このぐらい露骨で強制性のあるものもあるということだ。紅茶のパックを落とす頃には、放送は終わっていた。もうミームの接種は済んだはずだが、海野にはなんの実感も湧かなかった。白い錠剤を飲み、水色のネクタイを締める。
 その日、サイト-████で発生した死者は一六名。うちDクラス職員の消耗が一五、実験中の不慮の事故(検証済) による研究員の死亡が一人。殺人は起こらなかった。
「不気味なぐらい効いたわね」
「効果を評価できるようになるまでには、少なくとも数日を要するそうですが」
 廊下中に張り出されたポスターの縮刷版を手にする指には、久方ぶりに塗りなおしたと思しき新しいマニキュアが塗られている。これでしばらく煙い思いをしないで済むだろうと安心した海野は、諸知博士からの伝言があると言った。
「今回の効果を測定するために、職員のミーム受容体を一度検査したい、とのことなんですが」
「ミーム受容体って要するに脳よね? それうちじゃ許可出せないわ、医療部門と管理部門の所掌になるんじゃないの」
「どうも、捜査目的となるとうちの判子がいるそうで」
「なるほどね……どれどれ」
 洒落たデザインの赤い眼鏡が実は老眼鏡だということは、串間本人のみが知っているつもりの公然の秘密だった。諸知博士が提出した書面は、大体一目でほかのものと区別をつけることができた。気味の悪い犬のロゴマークを透かしに使っているのは、サイト-████広しといえども記憶処理部門だけだろう。
「わかった。来週までには結論出すから、先に倫理委員会にも話を通してもらっておいて」
「了解しました」
 首をさすりながら出ていこうとする男は、「ちょっと」という上司の呼び声に歩を止める。あからさまに気後れした様子で振り向いた部下は、赤い口紅が弓張月に歪んでいるのを見て悟る。
「結局ここなんですか」
 サイト内のバーは残業終わりの職員でにぎわっている。朝五時まで営業ということで、酒癖の悪い職員が部下を朝まで付き合わせて酔いつぶれている光景を大変な頻度で目にすることができた。そして今回それに該当するのは、おそらく彼ら内部保安部門の二人組だった。
「どうかしてるわ、ここじゃ隠れられないのに」
 高級職員専用の個室という串間の選択からは、今夜は守秘も自制もするものかという強い決意が現れていた。個室は完全遮音の複合素材でできた壁に囲まれ、大声でわいせつな語を叫んだとしても外に漏れないが、まれに人事部から戒告が届くと言われる。
「監視カメラのない空間なんてありませんしね」
「……この歳になると徹夜がきつくて」
 酒が入ると始まる串間の弱音は、海野が最も苦手とするものの一つだった。話を聞けば婚約者がいたそうなのだが、勤めている仕事もあって未だに独り身でいる。
「これで無事に解決すればいいんですけどね」
「いずれにせよ原因究明はしなくちゃならないわ」
 明日から、また通常勤務のローテーションに戻れるかはだいぶ怪しいところだった。内部保安部門の人手不足は今に始まったことではないが、だからといって雇用条件の緩和を行えば組織そのものを崩壊させかねない。しかし、このままでは職員たちの方が音を上げるというジレンマを持つ。
「お前──」
 するどく突き刺さるような怒号のあと、机の上をすべてひっくり返したかのような音が続く。声は防音壁のせいでくぐもって聞こえ、言葉の内容までは聞き取れない。
「待っていてください」
 立ち上がりかけた串間を制止した男は、コンシールドキャリーの自動拳銃に手をかける。彼はしかし、すぐにベルトのホルスターから手を離していた。仮にこれが必要な状況であったとして、銃口を向ける役目は駆けつけた警備員が果たすだろう。内部保安部門においてコンシールドキャリーの必要性は、度々議論の俎上に上げられるテーマだった。激務の内部保安職員たちには十分な射撃訓練の時間が与えられず、結果として射撃による不慮の事態を招く恐れから銃の使用は嫌われる傾向にあった。海野の場合もそれに漏れず、形だけ携行義務を果たしておきながら、これまで滅多に使用することはなかった。
 怒号はなおも続いており、すぐにそれが二人の人間による言い争いであることに男は気づく。酒類提供の店である以上、多少のいざこざが偶発的に発生することは防ぐことのできない事象なのだ。人だかりからは制止に入る声も聞こえていたが、どうやらなかなか当人たちは鉾を収めないらしく、応酬は続く。
 射撃下手の監察官は歩を速めて、通路を埋め尽くしている人垣に手を差し込むと、無理矢理身体を間にねじ込む。痩身の若い研究員が、気に入らない上司に馬乗りになってあらん限りに叫び続けていた。
「いつもいつも滅茶苦茶なこと命令しやがって、お前、本当はオブジェクトのくせに」
 酔った勢いといえども取り返しの付かない暴言が、まるでブレーキを失ったままカーブに突っ込む列車のように繰り出され続ける。
「気持ち悪いんだよ、絵の具ばっか食いやがってよ。お前が近くにいると食欲が失せるんだ」
 すでに気を失っていると見える上司の顔は腫れ上がっていて、識別がかなり難しい。研究員のタグが芸術研究部門のものであると断定されると、監察官は即座に行動を起こそうと決断した。テーパードパンツの裾を少しまくり上げ、気づかれる間もなく一歩を踏み出し上段めがけてストレートキックを打ち当てる。
「この──あゔっ」
 男の硬い靴底は顎を捉え、衝撃が頭蓋骨を貫通して飛んでいく。蹴りの勢いのまま、仰向けに倒れた研究員の両肩を左手右足で押さえつけた彼は、ここぞとばかりに銃を抜いた。
「止まれ。内部保安部門だ」
 事態を飲み込めずに騒ぎ立てる暴れ馬は、やがて口腔内に侵入した異物の正体を悟ると大人しくなっていった。抱き起こされた上司は失神しているかと思われたが、部下が手錠をかけられ無抵抗と見るやすぐに逆襲を図ろうとした。警備員に羽交い締めにされてようやく反撃を諦めると、今度は口汚く部下の失態をなじり始める。うつむいて慚愧の念に駆られていた研究員は目を剥いたが、すぐに警備員に連行されていった
 その目は義憤に燃えるというよりは、明らかに私怨と憤怒にまみれている。上司は上司で、唐突な部下の発狂に全く心当たりのないといった様子のように見受けられた。顔中を赤く腫らした色敷研究員は、血で汚れたジャケットを払って吐き捨てる。
「ぼくが修士しか持ってないのに上なのが気に食わないんだ」きっとそうに違いない、と見当違いなものなのかも判然としない憶測を並べ立てて、海野の方に詰め寄った。「彼をしっかりと処分してくれ。二度とぼくの目の前に現れないように」
「ご心配には及びません。色敷研究員」
 背後から監察部門の副管理官が現れると、その場の職員たちは天敵を見つけた群れのように散っていく。
「これは……」
 この研究員とて、部下の不祥事に関する苦情を彼らに言う愚に思い至らぬほど鈍くはなく、早々にその場を後にする。結局バーに残されたのは満身創痍の監察官二名と、騒ぎの後始末を引き受ける哀れな清掃員だけだった。串間は断る清掃員に酒をおごると、ラウンジのソファーに倒れ込む。
 酒でこの場に残された陰惨を拭い取るには、それなりの量を必要とした。バーテンダーの諫言を全く聞き入れようとしない女性幹部は、こぼれたブラッディマリーをぬぐった唇で言う。
「あのヤブ医者を信用するべきじゃなかったのよ」
「まだ警戒配置は解けませんね。……分かってるなら飲まないでください」

 

 あまり人に自慢できない類の友人という者が、誰しもに存在する。八家十次という人間は、海野にとってのそういった存在だった。歯並びと勤務態度以外は最悪という人物評は、たいていの知己が太鼓判を押す内容となっている。だが、生きている被害者と殺すまでに行かなかった加害者を手に入れたという事実は、内部保安部門にとって千載一遇の機会であったことは紛れもない事実であったし、そのために最適な人材を配置するのはもはや義務とすら言えた。
 あれから三日が経過した。継続的に発生し続ける衝動殺人事件だが、海野たち内部保安部門は未だその抑止に有効な施策を取れずにいた。テンプレート-9447は結局、なんの効用ももたらすことなくただ毎日ペール・ギュントを流し続けているありさまである。
「お名前は」
「黒田といいます」
「被害者の色敷研究員とはどういったご関係で」
「つい最近、配属された先にいた上司です。もともと折り合いがそんなに良かったわけではありませんし、ずっと我慢していたんです。……」
 被害者の言い分を聞きながら、八家は長く息を吐いていた。一見すると完全に話に飽きているようだが、あの尋問官はあれでしっかりと依頼した情報はとってくる職業人であった。
 マジックミラー越しに聴取の様子を見守っていた海野は、ときおり手元の資料と照らし合わせている。わかりきっていたこととはいえ、いっさい有益そうな情報は得られそうになかった。八家のそれに比べると、だいぶ疲労と悲嘆の含有量が多い息を吐く。これまでの六件と同様、七件目も大して事件の性質に差はない。
 別室で待機していた串間は、尋問の状況について伝えられると、
「あと一〇分で切り上げろ」
 ついに耐え切れずにそんな指示を下した。二日酔いというほどではないものの、昨晩の深酒がよほど効いているらしく、少々今朝は機嫌が悪い。ここのところ中間管理職としての苦しみを存分に味わっている副管理官は、眉間に寄った皺の形を常に変えながら過ごしている。
「やっぱりこんな感じでしたね」
「最悪」
 赤い爪が掌に食い込んでいる。そのまま貫通してしまうのではと危惧されるほどに強く握られた拳は、しかし何にも振り下ろされることなく解かれる。苛立ちをポケットの中のライターを探すモチベーションへと昇華し、それらは今無事に有毒な煙となって部下の鼻腔に届いていた。
「これからどうされますか」
「どうしましょうかねえ」
 海野は仰け反りながら大きな白煙の塊を避け、横目で緑色のアイシャドーを覗き見る。すでに手元の資料に対して興味を失っている女は、いまはただその一本のフレーバーを吟味することに集中しているようだった。一二ミリの先端がもう一度赤熱したのを確認すると、海野はまた息を吐かれる前に行動を起こした。
「では、開頭手術の結果を受け取ってきます」
「………………」
 女は何も言わずにうなずいた。これ以上密室で煙を浴びることは、部下にとっては耐え難い苦痛であった。加えて、たばこ以上に彼女の態度自体が精神衛生に悪影響を及ぼすものに感ぜられたのである。海野はラフに敬礼すると、最短距離で部屋を出て行く。
「どこへ行くんだ」
 サイト-████の尋問室から記憶処理部門までの道すがら、海野はできれば会いたくない友人にふたたび出くわすこととなった。八家は今日すでに三人の尋問を終えており、串間とは対照的に幾分機嫌が良い。
「たばこの匂いがついたから、浄化されてくる」
「わたしに会うときはラベンダーの匂いも浄化してから来てくれ」
 諸知博士のオフィスに行くという目的はすでに割れているようだった。それは、あるいは無駄骨を折らされたことに対する嫌味の類かもしれなかった。黒いスーツはそのままどこかへ消えていき、海野はまた歩き出す。
「禁煙のための薬も処方しましょうか……」
 三つ編みが小刻みに揺れて、そのたびに鎮静作用をもたらす香水の匂いが場にふりまかれていた。ゴム底の靴がぺたんぺたんと間の抜けた音で近づいてきて、海野がオフィスのドアを閉めるころには目前に立っている。諸知博士が差し出してきた資料は、フルカラーでみる人間の頭部大図解といった風情の紙束だった。
「……結果から言うと彼らは全員、なんら強制されることなく自発的に殺人をやってのけています」
「頭を開くとそんなことまでわかるんですね」
「ええ……いかがですか」
 顔の下半分だけが笑っている記憶処理医は、紫色の液体をティーカップに注いだ。花の色素が出たものだという説明があったが、海野はいったん固辞した。少し残念そうな諸知は、カップと脳髄の模型を持ち替えた。
「ここの神経を調べれば、その人間の情動というものがわかります」
「ああ、あの、飲み合わせがあるかもしれないので」
 説明を一時取りやめた諸知は、なるほど、と納得して見せた。職務上種々の服薬を求められる財団職員は、意外に摂取が禁じられる食物の種類が多い。オリエンテーションでベーグルが出されるのが好まれるのは、大体このあたりの事情が起因している。
「細かい説明はあとにしましょう。ともかく、彼らはわたしが検出できないほど、巧妙になにか仕込まれたか、あるいは本当に殺したかったかです」
「六人──いや七人か、が偶然にも一日ごとに同僚を殺そうと思い立ったと。……博士が先日投与したミームはどうなんです? なにか仕込めましたか」
「さっぱり効果が上がっていない、というわけではないのです。今日入っていた職場の人間関係に悩む職員のカウンセリングがもう十件ちかくキャンセルされていますし。でも、それ以外になにか、原因があるとしか考えられませんね、殺人が止まないというのであれば」
「ふむ……そうですか」
「調査に当たっている方にこんなことを言うのは少々気が引けますが」諸知は一切本心にないことを隠そうともしない発音で、正確に監察官の不興を買い上げた。「むしろ、加害者よりも被害者にこそ着目された方が、今回はいいのかもしれません」
 黒埼 蛇、部下にカッターナイフで咽頭部を切りつけられ、窒息死。出会い頭の犯行だった。
 コード・ネーム ユーリィ、本名██ ██。同僚にネイルハンマーで殴打され出血多量により死亡。
 針山 栄治、休暇のための氏名登録の誤りを巡って口論となり、厚生部門の職員にボールペンを眼球に突き刺され絶命。ペン先は脳まで達していた。
 般若 瞳、実地調査中の部下に至近距離で散弾銃を発砲され即死。頭部の四割近くが飛散し、顔による個人の特定が困難な状態だった。
 日野 千春、自室に火を放たれ焼死。犯人は同僚だった。
 魚住 映司、行方不明だったがサイト内の浄化水槽から遺体が発見された。遺体は大部分が溶解していたが、現場には眼鏡が遺留品として残されており、指紋から上司が犯人と特定された。
 年齢、職掌、階級、性別、年収、家族構成、交友関係そのすべてにおいて共通性が見いだされない被害者たち。
「彼らには特異性があった以外の共通点はありません」
「ええ、ですから、それゆえに一つ気になる点がある」海野のために入れたカップをふたたび取り上げて、諸知はシンクへと向かう。監察官が止める暇もなく透き通ったラベンダーティーは排水管の中に吸い込まれていく。「彼らは全員、特異性のために内部保安部門の監視下にあったはずでは」
 廃棄された茶のことはすぐに、海野の頭の外へと放り出されている。疲れた官僚にもわかる程度の誘導でもって、諸知の会話は成立されている。
「本来交友関係上の問題が発生していれば、とうぜん内部保安部門で検知している。だが、今回はそれが、いずれの場合にもない。いや、なかったのではなくできなかった
「ええ、初めからわたしもその点を聞きたかったのです。ですが」言葉を切った記憶処理医の双眸は、藤色の鈍い光を帯びていた。「このことを聞くのはとてもためらわれました。できれば、限られた人間だけがこのことに気が付いているべきです」
「つまり、諸知博士。あなたが言わんとしているのは」
ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ
 内部保安部門のなかに、裏切り者がいる。医師はとても遠回りに、そのことを伝えようとしている。だが確たる証拠もないままに、いたずらに組織の内部をかき回すような真似をすれば、待っているのはジーザス・アングルトンに率いられたCIAと同じ末路である。
「誰がテイラーなんです」
「特異性職員の監視は代々部門管理官クラスの職掌でしょう。わたしも長いので、そのぐらいのことは知っています。そしてそこの情報を偽装できるとすれば、あなたの周囲には一人しかいない」
 鍵のついた引き出しを開けた記憶処理医は、慎重な手つきで海野にそれを手渡した。ごく薄いフォルダーに綴じられている書類は、数年ほど前の内部保安部門が解決した事件に関する情報だった。諸知のセキュリティ・クリアランスでは、紙面のほぼすべてが黒く塗りつぶされている。しかしこの医師が当該人物の主治医であったことが、幸運かつ決定的なはたらきをした。
「過去の類似事例です。取り逃がしたとはいえ主犯格は特定されていますし、些細な事件でしたから、おそらくご覧になってはいらっしゃらないでしょうが」
 サイト-8120での連続特異性職員殺害事件。実際のところ、この手の類似事例は、海野たちも腐るほど調べて尽くしてきたものの一つに過ぎない。反人型異常実体主義アンチ・メアリニズムなどという言葉もあるほど、人間は何かにつけて同類を区分し迫害するものである。監察官を驚かせるに足るのは、その報告書の主任調査官の氏名だった。
 串間小豆。現・内部保安部門副管理官。
「本当に主犯格は取り逃がしたんでしょうか。誰かに罪を着せて、今日まで素知らぬ顔であなたのとなりにいたのでは」

 

 翌日、海野の姿はサイト内の大資料室にあった。諸知の推理を受けてから、彼はすぐにその事件に関連する資料の閲覧請求を出した。SCL4の記憶処理医でさえ手に入らない資料も、監察官ならば手に入れることができる。
 資料検索を担当したAICによれば、その事件の機密指定は最近解かれたものだという。諸知は一時期串間の主治医を務めていたことがあり、それがきっかけで担当していた事件についても内容を知っていたらしい。職権乱用とも取れる話だ。
「それで、どうしてわたしなんだ」
「お前ヒマだろ。今日の尋問は別のやつが担当するし」
「イヤだねえ。毎日誰か犠牲者が出る前提で生活してるのか」
 八家は憎まれ口を叩かないと酸素を取り込めない体質であるため、海野はこれをいっさい聞き流すほかないと知っている。彼のような主流に身を置かず、かつ親しい人間はこの調査に適任だった。海野の狭い交友関係では、彼以外にそういった存在を見つけることはできない。
「これハズレだったらどうするんだ?」
「ぼくが副管理官と気まずくなってクビになる」
「じゃあ大したことないな」
 これか、と言って八家はひとつの報告書を持ってきた。内容は、サイト-8120事件での犯人についての詳細だった。犯人の名前は香楽から 東儀とうぎ、フィールドエージェントとある。香楽は同僚のエージェント三名を殺害し、最後の犯行から一週間後に逮捕された。
 人間関係のトラブルがあったことが判明しており、任務中の事故に見せかけた犯行と結論付けられている。この事件をきっかけに香楽はDクラス降格が決定し、その後についてはまた別の機密接触資格が必要になっていた。
「まあ、普通といえば普通の事件だろう」
「この香楽という女についてもっと知りたいな。8120の記録に残ってればいいんだが」
 海野は立ち上がって、また新しい閲覧請求を書き始めた。書架を管理するAICは、たった数秒のうちに膨大な検索能力を駆使して彼の求める資料をリストアップしてくる。少なくとも所属サイトの管理部門の資料を当たれば、この犯人の人事情報については判明するはず──という彼の目論見は、〈該当資料なし〉という表示の前にもろくも崩れ去った。
「どういうことだ、これ」
「なんだ」
 端末の前で慌てている同僚に、八家が吸い寄せられてくる。肩越しに画面をのぞいた尋問官は、ほう、となにか驚いたような様子を見せる。ほとんど道楽でついてきている男は、となりの端末でDクラス降格処分時の資料から死亡者リストを検索し始めた。
「……香楽がDクラスに落とされたのはもう五年前なんだよな」
「ああ」
 載ってないぞ、と八家は言った。隣に首を伸ばすと、やはりAICが該当なしという表示を出している。香楽東儀という女はわずかな事件記録にのみ名前が残され、詳細な人事情報がすべて削除されている。これが単なる秘密部局への栄転などであれば、わざわざ内部保安部門の捜査資料という微妙な代物に名前を残しておくはずはない。
「Dクラス降格後に高度機密の実験に関与しただけなら人事情報まで削除はしないだろう」
「単に、問題を起こして降格になったからということはないのか」
「いや、規定なら10年は解雇後も人事情報をキープするはずだ」
「偶然にもDクラスになって五年間生きてるってこともなさそうだな。そもそも、香楽東儀という人間なんていなかったみたいな扱いだぞ、これ」
 なんでここまで隠されてるんだ、と海野は手で顔を覆う。彼の脳内にはすでにそれに対するひとつの結論が出ていたが、それと真正面から向き合うには多少の時間を必要としていた。そもそも、諸知の推理にはいくつかの問題点がある。
 誰かが八人の殺人未遂・既遂を教唆したとして、その方法は今もって謎である。それはほかならぬ記憶処理と情報災害の専門家たる諸知がそう述べている。そしてもうひとつ、その動機もまた不明である。衝動殺人を連続して起こさせたとしても、串間はみずからの職権でそれらの事件を一般に伏せている。これがサイト内での騒擾を狙ったものであるならば、いずれかの時点で事件を明らかにしサイト内の政情を不安にする必要がある。だが、それが実施される前に諸知とカナヘビはテンプレート-9447を散布してしまった。殺人は止まる気配がないが、サイト内で騒乱を起こすには確実に不利である。
 だが、香楽東儀の実在性はきわめて怪しいこともまた事実だった。財団組織内でそれほど大規模な書類の改竄ができるとは到底考えられないが、香楽東儀が実在していたという証拠はもはや内部保安部門の内部にしか存在していない。
「なんのために殺してたんだ」
「」