ここに北極はありません

taleA

「お前、達は。人類を。殺すだろう…いつか、必ず」
その言葉が今も頭に残っている。一字一句違わず頭の中に焼き付いている。殺風景なコンクリートの四畳間。こびりついた血はどんなに洗っても落ちはしなかった。中央を囲む排水溝を確認し、詰まった毛玉を吸い出した。椅子に縛られぐったりと項垂れた男はその血に塗れた顔を上げ、震える声でその言葉を絞り出した。口元から垂れたものは雑巾で拭き取った。薄暗い部屋の中央、閉まるドアの向こう側に、ただその目だけがギラギラと輝いていた。
「5時25分、特殊房26番の清掃を完了した。どうぞ」
「次は食堂だ。少し遠いがこれで最後だ。俺も向かってる。どうぞ」
「了解。45分までには着きそうだ。オーバー」
トランシーバーから流れる声を聞きながら汚れた長靴とツナギをカゴに放り込み、パックから新品を取り出した。鮮やかな黄緑色のツナギ。汚れていればすぐ分かるのかもしれないが目にはあまり優しくない。すぐに着替えて階段を上る。荷物はエレベーターが運んでくれるが、人間が乗るのはダメらしい。入れるにも出すにもカードキーを差し込んで扉を開く。なんとまあ荷物一つに厳重なことだ。
 
今日もいつもと変わらぬ日常。いつものように台車を押して廊下を歩く。冷えた廊下に人影は無い。実に殺風景な空間だ。やや足早に進んでいく。残る一箇所もさっさと終わらせてしまいたい。途中ある部屋の前を通りかかる。何かの叫び声が聞こえた気がした。歩みは止めない。そんなことはあり得ないからだ。またある部屋の前を通りかかる。何かの呻き声が聞こえた気がした。しっかりと前を見つめる。これは絶対に本物ではない。そうして全ての部屋が後ろに遠ざかる頃には心臓が大きな音を立てており、背中には何かが纏わりついているかのように感じていた。振り返っても何も無い。辺りを見回しても異常は無い。確認してからゆっくりと息を吐いた。今だけは何もかも忘れてゆっくりと目を閉じる。肌にひんやりとした風を感じた。深い呼吸の中で背中の重みが朝の寒さに溶けていく。溶け合い、私から手を離して遠ざかっていく。静けさの中で目を開く。時計を確認すると時間にはまだ幾許かの余裕があった。次の目的地へと動き出した足を少し止めて背後を振り返る。ずらりと並んだ部屋の数々。距離にして僅か数メートル。その僅か数メートルの先にはしかし、確かにこことは違う空気が流れている気がした。
 
食堂に着いた時、同僚はまだ来ていなかった。これ幸いとテーブルを拭き始める。好んで面倒な方を選ぶ奴なんかいない。悪いが床の方は任せるとしよう。遅れてやって来た彼は苦笑いしてモップを手に取った。すぐに会話は無くなる。二人ともあまり饒舌な方ではないのだ。頭の中に様々なものが浮かんでは消えていく。今日の朝食、明日の担当、週末の買い物。それらが次々と飛んでいく中で、一つだけ頭の中に残り続ける物があった。収容房に収められたオブジェクト。際限なく増え続ける常識を外れた何か。あれが見つからなくなる日は来るんだろうか。仮にその日が来たとして、それまで、そしてそれからも閉じ込めておくことができるのだろうか。収容房で聞いた言葉が蘇る。科学者達はできると言うのだろう。或いはただ、やるのだ、と。私もそう信じている。だが、ああいう廊下を通る度に声が聞こえるのだ。絶望、諦め、恐怖、そして憎悪。同じ声に同じ感触。だからあれはただの幻覚。弱い自分が作り出した一握りの妄想にすぎない。しかし、分かっていても足が震える。そうだとしても悪寒が走る。どんなに自分に言い聞かせても、何も無い場所から苦痛に歪んだ声が聞こえてくる。時にはたった今出てきたばかりの部屋からでさえも。

いつか私にも慣れる日が来て、きっとこんなことも無くなるんだと思う。でも今はまだ、声は止まない。

実働役を他に任せてしばらく経ったある日のことだ。調査。分析。共有。この日のタスクを全て終え、他の者が休憩に入った後。見張りの当番ももう終わろうかという時に、ずらりと並んだ計器のどれかからブザー音が鳴るのが小さく聞こえた。椅子に任せていた背中を持ち上げ、焦らぬようにゆっくりと椅子を回して立ち上がる。数多の世界を観測するこの部屋において、異常は当然好ましいことではない。見れば以上を示す赤ランプが確かに点滅している。遠くに一つ、その少し前に一つ。そして音の発信源はこの広い部屋のかなり奥らしい。二つ同時というのは極めて稀なことだった。

まずは手前の機器に向かう。これはごく最近配置されたものだ。他の世界との繋がりが極めて薄く、安定した世界だったために継続観察は後回しにされていた。だが、目の前で計器は確かに異常を示している。メーターは基準値付近を慌ただしく行ったり来たり。発生した事象を示す多軸グラフは予想値を大きく外れていた。他にも色々気になる箇所はあったし当然詳しく調べなければならないが、もう一つを放置するわけにもいかない。白衣から端末を取り出して情報を共有し、応援を呼んだ。共有されたのを確認してから自分はもう一つの機器へ、部屋の奥へと向かう。

この部屋は日々拡張されている。常時観測可能な世界が増え続けているからだ。既存技術の進歩だけがその理由ではない。新たな人員。新たな概念。世界を渡る度に我々はその限界を押し広げてきた。最初に見ることのできた世界のなんと少なかったことか!無意味に犠牲が積み重ねられることはもう無いだろう。

広い部屋を早足で歩く。広さが増すと優先順位が生まれた。危険な世界は手前に、安全な世界は奥に。大きな世界は手前に、小さな世界は奥に。しかし観測ができなくなった機器が処分されることはなかった。消滅した宇宙や全てが滅びた宇宙でさえも観測の対象であることには変わりない。

やっとの事で機器まで辿り着いた。この辺りはもう消滅した宇宙の観測機器しか無かったはずだが、問題の機器のパネルには微弱ながら反応があった。どうやら本来終わっているべき世界が未だに生きているようだ。コードを確認してさっきのはこれが原因か、と一人頷く。先ほどの宇宙に繋がっている数少ない宇宙の一つがここだ。こちらの宇宙の
生きていると言ってもその空間はどうやら空で、中身の無い入れ物がただ無の中に浮いているだけだ。或いは空間すらもそこには無く、ただ純粋な無が佇んでいるのかもしれない。ともかく確かなのはそれを消さなくてはならないということだ。簡単なことだったがそうしなかった。その代わりに計器をその角度に合わせ、より綿密な調査を始めた。計算に狂いが生じた原因を突き止める必要がある。

広い部屋の中に機械音が静かに響く。かなり手こずりこそしたが問題なく原因は発見され、速やかにその世界から取り除かれた。操作パネルから顔を上げ、装置に現出したそれを一瞥する。見れば僅かに砂が入った小さな砂時計だ。巧妙に隠されたそれが世界を辛うじて生かしていた。いや、生かしていたという言い方は正しくない。それは自身の存在によって丁度大きさと同じだけの空間を繋ぎ止めていた。愚かなことだ。風呂の湯を少しばかり桶に残しておいたところでそれを湯船と言い張ることはできないだろう。
彼は装置の中から役目を終えた砂時計をそっと掴み取り、光に透かしてじっと眺めた。心なしか砂が目減りしているようにも見える。
弱々しく、だが確かに落ち続ける砂からは一番最後に訪れた世界のことが思い出された。

少しだけ進んだ科学、少しだけ異常な日常。そして決意を目に滾らせた男。朧げな記憶を辿って懐の端末をまさぐる。もういつの事かも忘れてしまったその日の音声記録を、彼は未だに破棄できずにいた。


「世界を救うために協力してくれ。我々にならそれができる。」

「……この世界はどうなる。もはや一刻の猶予も残されていないこの世界は」

「残念だが犠牲無くして前進は無い」

「私は人を救いたい」

「私もそうだ。そのために尽力してきたのだ」

「その口ぶりだと君たちは幾つもの世界を潰したようだな」

「尊い犠牲だ。そのおかげで多くの世界が救われている」

「その尊い犠牲とやらを顧みようとは思わなかったのか」

「後ろを振り返っていては何も成すことはできないだろう」

「消え去った世界の人々は救われたのか」

「何を言っている」

「望まぬ人々に犠牲を強いる救いなど、そんなものは断じてありえない」

「分からない君ではあるまい。人の手が届く範囲は決して広くはないのだ」

「自分たちにできないことだから諦めてもいいと言うのか」

「見解の相違だな。残念だよ。きっと君とは上手くやれると思っていたのだが」

「……そうだな。本当に残念だ」


あの世界はどうなっただろうか。いや、消えたに決まっているな。

思い出したように白衣の袖を捲り上げ、腕時計を確認する。
「そろそろ時間だな」
薄汚れた白衣を翻し、砂時計を無造作に放り投げて部屋を出る。腕時計の針は止まっていた。

間違ってなどいない。進むのだ。世界が救われるその日まで。

呆気なく砕けた砂時計には、もう砂は入っていなかった。