SCP1219JPの話
熊の力は偽物だ。物が持ち主との記憶を有するはずがない。
そうマキノ博士が断言した。いつものように。
彼はSCP-1219-JPの実験に執着していた。本来動くはずのない物に、あたかもそれに意思が芽生えたかのような動きをもたらすその熊の力を解明し尽くす必要があると。私たちがちょうどその自説を忘れかけた頃に狙ったように言い放つのだから質が悪い。
「熊は何らかの方法で持ち主と玩具の過去を知るのだ。そして、玩具を操り持ち主との記憶があるかのような動作をさせる。あの熊はまだ何かを隠しているし、まだ我々に見せていない力があるはずだ」
これがSCP-1219-JPに対するマキノ博士の見解のすべてだった。
SCP-1219-JPが発見され収容された当初、熊の情報を得た私たちサイト12の職員のうち数名がそのオブジェクトに興味を持ったこと(それも、私欲的な方向に)を正直に白状しなければならない。その熊ができることを知った時、彼らは脳裏にお気に入りの玩具を想起したことだろうし、叶うか叶わないかに関わらず、ぜひ動いてもらいたいと思ったはずだ。実際、上司にもO5にも届かない彼らのひそひそとした声はそう語っていた。
「子供の頃からずっと一緒にいる熊のぬいぐるみがいるの。もし動いたら……すごく嬉しいんだけど」
「数年前から人形に凝っているんだけど、実験で利用したらどうかと言ってみようと思うよ」
そういう感じのひそひそ話が当分続いていた。
「全く……自分の熊やら人形やらを持ち込まれるのはもううんざりだ」
マキノ博士は昼食の生姜焼きをまずそうに食べながら言った。この食堂の食事はそれほど不味くはないのだが、彼の常に不機嫌そうな顔にはそういう印象を持たずにはいられない。おそらく今日も数件の実験の要望があったのだろう。それも、すべて彼の気に入らない類の。
「プロトコルに追記しましょうか。私的利用は禁止だと」
私は食後のコーヒーを飲みながら提案した。彼は表情を変えず、常人の一口の3倍はあろうかという量の千切りキャベツを頬張った。皿には哀れにも数本程度のキャベツしか残っていない。しばらくジャキジャキと音を立てて咀嚼したあと、飲み込んだ。
「……それについては私も提案したがね。だがまだ続けるそうだ。私のいつも言っていることが事実かどうか分からないからね。それほど多くなくていいが、定期的に実験をして記録しなければいけない」
「持ち主との記憶が本当にあるかどうかですか」
「そうだ。まあ、あるはずないが」
「決めつけるには少し早計では?」
「確かに、まあ、君の言うとおりだ。だが物に記憶などあるはずもない。玩具は物であって生き物ではないし、まして記憶をする脳などどこにも入っていない。日本には付喪神という未知なる存在もあるが、あれは100年以上の歴史を持つ物に宿るのであって、たかだが数年か数十年ぽっちの子供向け玩具に命が宿るなど……」
こうなると彼は止まらない。
私は空になったカップをテーブルに置いた。マキノ博士の抜き打ち講義から抜け出す方法は未だに見つかっていない。色々試してみて最善の方法だと思ったのは、ただ頷いて聞くことであった。私はコーヒーによる尿意がまだ姿を見せないことを確認し、聞く態勢に回った。
「……そういう訳だから、この間禁止された玩具の破壊実験はとても発見の多いものになると思うんだよ。どうにか再開されないものかと思うんだがね」
かれこれ15分、彼の話を聞いた。私は周囲を見ずとも、この食堂にいる職員らが私を哀れっぽい目で見ていることを悟った。
「マキノさん、味噌汁が冷めていますよ」
「おお、そうだな」
すっかり湯気の上がらなくなった味噌汁を見てそう言うと、マキノ博士は話を中断した。彼は水でも飲んでいるような速さで味噌汁を飲み干してしまうと、一旦息を整えた。
「そういえば羽澄くん、きみは何か玩具を持っていないのか」
また講義が再開されると思っていた私は、突然そう聞かれてドキリとした。特段変わった質問でもなかったのだが、15分間首を縦に振る準備をしていたから油断していたのだった。
「玩具ですか」
「ぬいぐるみとか車とか、羽澄くんの年代だと……何だったかな。あのコマのような玩具が流行っていたかな?ほら、プラスチックのやたらゴタゴタしているようなのが」
「確かそうですね。あとは卵型の育成ゲームとか…それ以降はビデオゲームが子供の娯楽全般を担うようになりましたが」
「そうだ、それも気になっているんだ。ゲーム機に命が宿るのか、それとも機械には通用しないのか……羽澄くんは何か持っていたりしないのか?」
「いえ。持っていませんね」
「実家にも無いのか?」
「いえ」
「1つも?」
「はい」
私の家庭は貧しくはなかった。むしろ私や兄弟を1人余さず大学に進めてやれるような蓄えがあったので、むしろ恵まれている方だっただろう。文房具や本、服、鞄など、欲しいものは基本的には買ってもらえた。玩具の類を除いて。
私の両親は教育熱心だった。彼らのおかげで今の私があるといっても過言ではなかった(危険な職に就いているとしても)。素晴らしい両親には違いない。だが、玩具やゲームというものを信用していなかった。そのため、私はそういうものを知らないまま成人した。
私の兄弟は友人を通じてそれらに触れていた。成人して親元を離れると、両親に隠しながらでも自由に娯楽に触れることができていたようだった。私は友人もなく、元々娯楽に興味がなかった性格もあってかこの歳まで玩具というのがどういうものかを一切知らないのであった。
それを悲観したことはない。自分には必要のないものだからだ。
SCP-1219-JPの存在がこのサイトに明らかになり、職員たちの“大切なおもちゃ”、“思い出のおもちゃ”の存在が私に伝わってくると、なんとなく居心地の悪さを感じる時もあったが。
マキノ博士は少し驚いた様子だったが、すぐいつもの仏頂面に戻った。
「玩具に少しも興味のない、触れてもこなかった人間を奴はどう思うのか気になるね」
彼は私に玩具の思い出がないことを知る方法があるのだろうか。
私のことを知る玩具がこの世に1つもないことを知るのだろうか。
「今度、実験に参加すればいい。なにか、テディベアでも持って奴に見せ、こう言うんだ。『子供の頃から一緒にいる』と。そのテディベアがどう動くか気になるな。君を知ったように動くかもしれない。奴が嘘つきならな」
マキノ博士はカップに入った水を一気に飲み干すと、「それじゃ」と言って、食器の乗ったトレイを持って席を立った。
――――――――――
「これでいいんですか?」
私はプラスチックの袋に包まれたテディベアを羽澄博士に見せた。適当な玩具ショップで買ったそれはどこにでも似たようなものがあるような普遍的なテディベアで、大きさは500mlのペットボトルくらいの小さいぬいぐるみだ。
「いいよ、ありがとう」
羽澄博士はそれを受け取り、デスクに置いた。それ以降一切テディベアを見ることはなく、議事録を書いていると思われるモニターをじっと見つめ、キーボードをカタカタ叩いていた。
「領収書は出した?」
「あ、いえ、後で出します」
「忘れたら自腹だよー」
羽澄博士は明るい口調ながらも無感情に言った。
「今回は羽澄博士が実験に入るって本当ですか?」
そう聞くと、羽澄博士は手を止めた。
羽澄博士は元々SCP-1219-JPを担当を任せられた博士だったが、このオブジェクトの実験を開始して間もなく破壊を目的とする実験の検討にはレベル4以上の博士の関与が必要になったので、レベル3職員である牧野博士が新たに担当として配置され、レベル2職員の羽澄博士は専ら牧野博士の助手というような立場になっていた。
尤も常に玩具破壊のための実験をするわけではなかった。他職員が持ち込む玩具は大抵、その人の愛する玩具であった。人形、ぬいぐるみ、プラモデル等々。中にはアニメーションに登場するキャラクターのフィギュアとかいう明らかに自分の願望を満たしたいと思われる玩具を持ち込んだ者もいた。羽澄博士がどう思っていたかは定かではないが、牧野博士はこの状況を良しとはせず、それらの大半を却下した。
ある程度寛容な羽澄博士が何とか言う前に牧野博士が良し悪しを判断するようになったので、今や実験の申し出は以前と比べて随分減っている。
羽澄博士は振り返らずに「うん、久しぶりに」と答えた。おそらく書き終えたらしい議事録を保存すると、ようやく振り返った。
「牧野さんが来てから何もしてなかったからね。少しは実験に参加しないと」
「新品のぬいぐるみで?」
買ったばかりの玩具はもう実験に使用している。あえて今行う必要はないはずだ。羽澄博士はちらりとぬいぐるみを見た。
「実験承諾書はまだ見ていない?一昨日配ったよ」
「ああ……すみません、まだ」
「当日までに見ておかないと。僕も毎日読まなきゃいけない書類ばかりで何を読んだか読んでないんだか分からなくなるけどね。ははは」
この通り羽澄博士は寛容なのであった。私が苦笑いで返すと、羽澄博士はデスクの引き出しを開けて1枚の紙を取り出し、私に見せた。申請した実験要望書が受理されたことを示す実験承諾書であった(他にも1つの実験に使用する書類は山ほどある。海外支部と違って)。