Madexia
madexiaのサンドボックス
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 新人職員の私こと平田が、初めての単独の任務に就いたのは20██年██月██日のことだった。
 サイト-81██の外では蝉がじくじくと鳴いており、蜃気楼がアスファルトに焼き付いてしまいそうなほど日が照っている。冷房の効いたサイト-81██の事務室で辟易した顔をしてそんなことを語るのは私の上司だ。彼は私を呼び出しておいて先ほどから関係のない話をしている。灰色のデスクの上には取扱注意と赤字で書かれた封筒や冷めたコーヒーの入ったマグカップ、昨日私が提出した報告書までもが一度だって整理された気配もなく散乱していた。
「言ってやったわけだよ、僕は。だから……」
「それ、昨日提出した報告書ですよね」
「ん? ああ、そうだな」
「はあ……」
 上司は報告書といえば、とつぶやく。その後何かを探して引き出しを開けたり書類の山をかき回したりし始めた。普段からきちんとしないからこんなことになるのだ、などと考えながら待つこと数分、上司はようやく目当てのものを見つけたようでそれをずいと突き出してきた。
 それはA4サイズの透明な書類ケース、百円均一ショップなどでよく売られているそれそのものだった。特別な加工もされていないようだ。中には一枚の書類だって入ってはおらず、プラスチックの向こうに歪んだ上司の顔が見えている。
 次に上司は引き出しから何枚もの報告書を取り出した。それは全てが収容オブジェクトに関するもので、本来なら然るべき方法で厳重に保管されていなければならないものだった。
「すみません、あの、これいいんですか?」
「いいんだよ」
 私の怪訝そうな顔をよそに上司はケースに次々と書類を納めてゆき、最後に昨日私が提出した報告書もその中に入れた。ああ、と私が言ったときにはもう書類ケースは閉じられていて、上司はそれを二度三度振って中を整えてから渡してくる。ケースの中に行儀よく収まった書類たちには全て赤字で404の判が押されていた。
「何なんですか? 急に」
 暑さにやられたんですか、と言いそうになるのをぐっとこらえる。
「配達の仕事をな、任せてみようと思って」
「配達ですか?」
「配達だ」
 それは何ですか、と言おうとする。しかし上司はこれで用は済んだといわんばかりに肩をたたいて事務室を出て行ってしまう。

「配達先につくまで失くすなよ。それがこのサイトにあったってことが重要なんだから」なんて言葉を残して。

 後に一人残された私はケースを持ったまま立ち尽くす他なかった。


 とりあえず情報は足で稼ぐしかない。あの頼りない上司を捕まえるか、または詳しそうな職員を捕まえて相談するしかない。そう判断した私は事務室を出て廊下に立った。スリッパの乾いた足音を響かせながらサイト内を歩き回る。各人が忙しそうに、または暇そうに業務をこなしていて、それはサイト-81██の日常そのものであった。
「配達? そんな業務は聞いたことがないな」
「君どこの所属? ……ああ、あの人の。あの人も特殊だからね」
「古紙回収ボックスなら……それは知ってるって?」
 誰に聞いても有益な情報は手に入らない。半分諦めつつ次は誰に聞こうかと辺りを見回しながら廊下を歩いていた私は、不意に軽いめまいを覚えた。それは眠りこける瞬間だけを切り取ったような穏やかなめまいで、私は思わず歩みを止めその場にうずくまった。疲れが出たのだろうか、体調管理に不行き届きがあったのかもしれない。そんなことを考えながらめまいが引くのを待っていたが、めまいは長く続き中々収まることを知らない。
 やっとめまいが引き顔を上げたときには、そこはサイト-81██の廊下などではなく一面の銀世界だった。

「ここは……」
 雪が降っている。何もかもを覆いつくして忘れ去ろうとするように、白い白い雪が降っている。それを象徴するように厚く重い雲が一部の隙間もなく空にひしめき合っていた。呆然として立ち尽くしていると、手元の書類ケースがカタカタと音を立てる。
「……これか?」
 なぜだか分からないが、上司から書類ケースを受け取ったことと自分がここに呼ばれたことは全くの無関係ではないような気がした。ということはここが配達先なのだろうか。
 今の服装といったらこの場所には不似合いなひざ丈の白衣、淡い水色のワイシャツ、黒いズボン、足元は茶色のスリッパだ。当然それは私を寒さからは守ってくれない。裸の手に持った透明なA4の書類ケースにもすでにうっすら雪が積もり始めていた。辺りは一面雪の平原。真っ白に霞む視界の向こうには一点の染みのように、灰色の街が見えている。遠すぎて、本当はその染みが街だなんて分かるはずがなかったのだが、なぜかそれがはっきりとわかった。
 私は急に恐ろしくなって一つ震えた。街があるということは街にたどり着けるということかもしれないし、ひょっとしたらそうでないのかもしれない。きっと一人ぼっちで素面のままあの街に行って、ここに戻ってこなければならないのだ。生半可な気持ちでは達成できそうにもなかった。
 私は歩いてゆく。足跡のない積雪に足跡を残して。小さく頼りない足跡はついた傍から降りしきる雪に隠されて消えてしまう。

 歩いている途中で誰かに出会うということはありそうにもなかった。もう30分は歩いたと思うのだが。私はカタカタと歯を打ち鳴らしながら必死に快適なサイト-81██の空調を思い出している。全てが適温に保たれているはずだ。そもそも今は夏のはずだった。それなのになぜ雪原で寒さに震えなければならないのだろう。蝉の鳴き声の代わりにギシギシと雪を踏みしめる音が、蜃気楼の代わりに灰色の染みのような街が、夏の代わりに冬があった。
「寒い……」
 私の心はくじけそうだった。街は未だ遠く雪は降りしきり、膝は変色し靴下はぐっしょり濡れていたからだ。頭や肩に積もる雪を振り払う気力さえなく、義務感だけで足を動かす。これも自分の仕事なのだと一生懸命足に言い聞かせながら。

 それでもしばらく歩いていけば街は近づいてきて、1時間もする頃には街の土を踏むことができた。街はひと昔前の日本をそっくりそのまま持ってきたような風体をしている。壁の塗装が剥がれかけた集合住宅がこちらに背を向けて並んでおり、室外機の配管がうねるようにそこを走っていた。
 今は夜だろうか、頭上からは街灯の明かりが酔ったように明滅しながら降り注いでいる。出たのはどうやら裏路地らしく、人の気配もなければ動物の気配もない。街は眠っているかのようだった。
 曲がりくねった裏路地をあてもなく歩いてゆくと、運のいいことに大通りに出ることができた。やはり集合住宅の居並ぶその場所は、平成生まれの私にとって写真の中かよっぽどの田舎でしかありえないような古い町並みだ。体温ですっかり生ぬるくなった書類ケースを胸に右に向かって歩きはじめる。
「やあやあ道行くそこの人」
 突然だみ声で話しかけられ、私は飛び上がって辺りを見回した。こっちこっちという声に誘われてみれば、私に話しかけてきたのは路傍の花であった。
「こちらだよ、見知らぬ人」
「はあ、そんなところに。道理で……」
 もう花が喋っているくらいでは驚けなかった。
「何か御用ですか」
「見知らぬ人がいたら話しかけるのは当然のことだろう、ふむ、その様子だとまだ酔っていないね」
「酔う……? 仕事中ですから」
「結構結構、そんなことはいいんだよ。で、どこに行かれるのかね」
「……これを届けに行くんです」
 私は書類ケースを少し傾けて見せた。そこには相変わらず真っ白な報告書が入っていて、花はそれを見てうむむ、とうなった。
「だったらね、向こうの川だよ」
「川ですか」
「なんだい、前の人に教わってないのかい。ほら、そこの家の角を曲がりな。そしたらあるから」
「はあ……ありがとうございます」
 花はいいってことよ、とゲラゲラ笑うと喋って疲れたのかうとうとしはじめた。そんな花を尻目に教えられた通り川を目指して歩きだす。手に息を吹きかけ温めようとしたが、微弱な体温は一瞬で奪われてしまった。

 川というのは本当にすぐそこにあった。あるいは水の流れているところならどこでもよかったのかもしれない。
 幅数メートルの小さな川には石でできた橋がかかっている。川は半分凍り付いていたが、荒れ野の斜面に囲まれて辛うじて流れを保っていた。
 どうしたものかと川と書類ケースを見比べる。誰かいるか、あるいはポストのようなものがあるのではないかと予想していたにもかかわらずそこには川以外何もない。橋の中央まで歩いて行って、ため息とともに川を見下ろすと冷たい水のにおいが立ち上ってきた。
 報告書がかさりと音を立ててケースを揺らしたのはその時だった。この狭苦しいケースから出せと言わんばかりに報告書たちは暴れる。その音に気が付き驚いて書類ケースの蓋を開くと、そこだけ突風が吹いたかのように報告書たちは天に舞い上がった。
「あっ、ちょっと」
 慌てて書類ケースのふたを閉めたが、時すでに遅し。雪に紛れて空に舞った報告書は瞬きの間に赤や白のひらひらとした花になって川面に落ちていく。
 私の記憶が確かなら、それはグラジオラスの花だった。書類は一枚残らずグラジオラスの花に変わると、全てが風に乗って川の向こうに流されていく。私はその光景を寒さも忘れてうっとりと見つめていた。


「ご苦労さん」
 私は気が付けばサイト-81██の廊下に立っていた。冷房が効いた廊下はあの街に比べるとむしろ暑いくらいで、その気温の変化に身震いする。あの後元来た道を戻ってきたところまでは覚えているが、その後の記憶は曖昧でよく分からない。上司は私の手から空の書類ケースを取り上げると小脇に抱えた。
「あの、あれは何だったんですか」
「面白かっただろ?」
「寒かったです」
「つれないやつだな」
「教えてくださいよ」
「あれは見たまんまの場所だよ。平田は多分酔えないと思ったから」
 上司はにやりと笑うと適当なねぎらいの言葉をかけて立ち去ってしまう。待ってください、と呼び止めてもひらひら手を振られるだけで、きっとこれ以上は自分で確かめろということなのだろう。ため息をつけばサイト-81██の喧騒が耳に入ってきて、私はようやく日常に戻ってきたのだと確信した。

 脳裏にはあのグラジオラスの花が焼き付いて、しばらく消えそうにもなかった。