アイテム番号: SCP-XXX-JP
オブジェクトクラス: Safe Euclid
特別収容プロトコル: SCP-XXX-JPはサイト-8169の低危険度物品収容室に静電気を貯めぬ種類の布類で個々に被覆して保管されます。実験などで使用される際に、特別なクリアランス権限を持つ職員の許可は必要ありません。 事案報告-1を受けて、レベル2クリアランス以上の権限を持つ職員の許可を得ずしての利用は禁止されることになりました。また同時に、複数個体を用いての利用に限り、更に上位の権限を持つ職員の許可が必要です。
新規に発見されたSCP-XXX-JPを追加保管する際には、なるべく真球に近い形に磨き上げた鉱石を使用してください。その際に利用する鉱石の種類は、観測・監視の観点から水晶などの透明度が高いものを選択してください。そのうえで個体ごとに一つずつの鉱石を割り当て、またそれらは最低でも五メートル以上の間隔を空けて保管してください。
説明: SCP-XXX-JPは“鉱石内を移動する生物”であると推測されているオブジェクトです。主に一般に広く知られるような魚類やウミヘビ科などの爬虫類と非常に酷似した形態を保持しています。20██年現在、財団は総158種・計203体を収容しています。
また財団での保管は以前までは各国支部にて各々に行っておりましたが、20██年に日本支部にて史上初の(判明している)全種類を用いた実験を行うに当たり、各国支部から日本支部へとオブジェクトの移譲とナンバリングの統一再分類がなされました。
捕獲されたSCP-XXX-JPは鉱石内を運動する活動のみを常に示しており、食物摂取や繁殖行為などについての詳しい生態は未だ判明しておりません。また自然環境における観測も同様に成功しておりません。
一方でSCP-XXX-JPは古くから確認されてきたオブジェクトのひとつであるとされており、現存する最も古い記録としては11██年に蜀で著された伝奇集『███』が挙げられています。財団やその各支部前身機関におきましても長期間の収容物となっており、いずれの記録においてもSCP-XXX-JPがこれまでになんらかの凶暴性や直接的な危険性を示した事例はありません。
しかしながら同時に、現在はその性質上から一般の人々の目に触れる可能性が高いことが懸念されています。SCP-XXX-JPはごく一部の(そうした不可思議なものを好む)好事家たちの間では、透明度の高い鉱石を利用すれば非常に風雅な観賞品になることで知られており、そのような一般市民を対象にした密流通が古くから盛んとなっています。
財団では以前より、オブジェクトを保有するそうした人々に対して財団への譲渡を迫り、またそれが[編集済み]などの理由によって難しい場合には「むやみに多くの人目に触れさせない」ことを徹底して誓約させるなどを行ってきました。ところが近年に入り、そのようなオブジェクトの一般市民へ向けた密流通が、特にSCP-XXX-JPは増加の傾向にあります。
この事実による情報暴露の危険性が再評価され、20██年に日本支部における統合管理に移行する際、SCP-XXX-JPは担当職員らの申請によりそれまでのSafeクラスからEuclidクラスへと変更されました。
過去には「ただ泳いでいるのみ」としか捉えられない活動を見せるSCP-XXX-JPに対し、「生物の姿に見えるだけの“現象”や、それに類する“無生物”なのではないか」とのような仮説も多数述べられてきましたが、20██年に行われたいくつかの実験において、明らかな生物的対応が見られたとされることから主流ではありません。
現在ではそれら実験の結果を受け、SCP-XXX-JPは鉱石内部においてのみ存在することのできる、主に霊子によって構成された幽体生物であることが推測されています。
実験記録XXX-1 - 日付20██年06月30日
対象: SCP-XXX-JPの158個体(以降、SCP-XXX-JP-1~158、もしくは対象と表記)
目的: SCP-XXX-JPの生態の調査
実施方法: 対象を現在する石英中からそれぞれ別個に用意した水晶中へと移入させ、重量等の遷移を記録。その後、移動させた水晶を削ることで対象をそれぞれ様々な気体や液体中に追い出し様子を観察。
結果: 対象を移動させた水晶はすべての物に前後で重量等の変化は見られなかった。また大気や液水に限らず、鉱石以外に露出させた対象はすべてその接触部分が気化によって消失した。その後、欠損した部位は鉱石内で時間が経過すると、個体差はあるが、きわめて短時間で修復した。
分析: どうやら重量を持たず、鉱石内でしか存在を維持できぬらしい。やはり根本的な部分で特殊な霊体に由来するオブジェクトであると推測される。治癒能力もしくは修復能力は高いようだ。また、鉱石外に露出することを極端に忌避する様子からは、死を恐れる生物的対応が垣間見える。――████博士
実験記録XXX-2 - 日付20██年07月03日
対象: SCP-XXX-JPの158個体(以降、SCP-XXX-JP-1~158、もしくは対象と表記)
目的: SCP-XXX-JPの生態の調査
実施方法: 対象を現在する水晶中から、様々な種類の鉱石及び様々な形状に加工された鉱石へとそれぞれ移動させて様子を観察。
結果: 鉱石の種類については、対象の各個体が象る種によって若干の好みが分かれているらしき様子が確認された。また、対象の象る種には限らず、一貫して球体形状の鉱石内に存在する場合において最も大人しい活動を見せた。
分析: 象る種によって鉱石の種類に若干の好悪があるようだが、どうやら水晶はあまり意見が割れないようだ。また同様に例外なく球形を好むが、これは真球に近ければ近いほど良いらしい。――████博士
実験記録XXX-3 - 日付20██年07月05日
対象: SCP-XXX-JPの158個体(以降、SCP-XXX-JP-1~158、もしくは対象と表記)
目的: SCP-XXX-JPの生態の調査
実施方法: 対象を個別収容の状態から複数個体の収容へと変更し、様子を観察する。
結果: 特別な反応は得られなかった。
分析: SCP-XXX-JPは同オブジェクトの別個体に対して基本的に無関心であるようだ。ただ、自然海洋においては互いに捕食者と被捕食者にあたるであろう種別の組み合わせであっても反応は揺るがなかったことから、やはり姿は似ていても魚類とは全く違う生態を持つようである。――████博士
実験記録XXX-4 - 日付20██年09月07日
対象: SCP-XXX-JPの158個体(以降、SCP-XXX-JP-1~158、もしくは対象と表記)
目的: SCP-XXX-JPの生態の調査
実施方法: 複数個体での収容を実施した対象の経過を観察する。これは実験記録XXX-3以降、24時間ごとに確認が繰り返された。
結果: 個体同士の反応に関しては依然として変化はみられなかったが、一部の個体に体積の微小な増加が現れていることが確認された。
分析: ここ二ヶ月ほど特別な変化は確認されていなかったが、本日にあたり一部の個体が実験記録XXX-1当時と比較して明らかに数cmほど肥大化している様子が発見された。どの時期から増加が開始されたのか不明であるため、当変化と複数収容実験との関係性もまた不明である。ただ同オブジェクトが生物であると仮定するのならば、これは“成長”と呼べるものなのかもしれない。――████博士
付記-1: 長期に渡ってSCP-XXX-JPの調査・実験を担当していた████博士が、20██年03月08日、サイト-8169内の自研究室にて老衰死している現場を発見されました。以後、担当希望者不在のためSCP-XXX-JPの研究は一時凍結されます。
付記-2: 現在、████博士の死に不審な点があるとして、SCP-XXX-JPの再調査が一部職員によって提言されています。
事案報告-1: 付記-2の申請が受理され、付記-1の事案についての再調査が20██年04月10日より開始されました。そして改めた視点による調査の結果、SCP-XXX-JPに関して新たな性質が確認されました。なお、この報告をもちましてSCP-XXX-JPの利用に際し新たな条件が付加されます。
再調査によって新規に確認された性質は、以下の2点です。
1. SCP-XXX-JPは周囲に存在する(同SCP-XXX-JPの別個体を除いた)生物より、魂魄の霊子を搾取している。吸収率はきわめて微量から始まり、被搾取個体と共有する時間の経過、および同区間に存在するSCP-XXX-JP個体数と共に比例して増大する。確実な搾取効果範囲は未詳だが、後述する性質2の効果を考慮するにそこまで広域ではないと推測される。
2. 前述の性質1を有するにあたり、SCP-XXX-JPは自身の周囲に他生命を誘引する必要が存在すると考えられる。魂魄搾取により衰弱死したと思われる財団職員や一般市民に関する記録から、SCP-XXX-JPは共有する時間の経過と共に、搾取対象へと自身に対する強い執着を抱かせるに至っている事実が確認された。このことから、同オブジェクトにはなんらかの精神作用に関する能力も有されていると推測される。
付記-3: 事案報告-1において新たに確認されたいくつかの性質に際して、SCP-XXX-JPのオブジェクトクラスは特に変動いたしません。根拠としては、魂魄搾取にて衰弱死に至るには(現保有物全数を用いたとして)最低でも8ヵ月ほどの時間を同オブジェクトと共有する必要があると推測されること、および同オブジェクトより齎される精神作用に関してはクラスAの記憶処理で十分に対応が可能であることが挙げられます。
ただし以後、同オブジェクトを保有する一般市民が確認された場合にはたとえ[削除済み]であった場合においても危険性を説明したうえで回収の対応をしてください。そのうえで応じない場合につきましては、クラスAまでの記憶処理を施すことが許可されています。
1.
「やあ。ここ、いいかい」
6月。サイト-8169の非研究区画にある職員食堂で一人、いやに水っぽいカレーライスを食していると唐突にそう声をかけられた。
顔を上げると、白衣を着た初老の男が柔らかな笑みを浮かべている。
「あ、博士……。いや、勿論です、どうぞどうぞ」
一瞬呆け、腰を上げながら慌てて席を勧める。
「はは、それじゃあ遠慮なく」
穏やかにそう返しながら向かいへと着席する博士を見て、僕もようやく座りなおす。ふと彼の手元を見れば、白米に味噌汁、漬物に鯖の味噌煮……。
「今日の定食セットですか」
「ああ。そういう君は、……カレーか」
途端に苦みの混じった笑みになり、
「美味しいかい」
「いえ、正直なところ、あまり……。鯖の味噌煮なら、僕もそっちにすればよかったな」
博士は鷹揚にうなずくと、「入団したてなら知らないものな」と独りごちて、
「覚えておくといいよ。“ここの汁物はたいてい不味い”。」
まともなのはこの味噌汁くらいさ……。そう言って碗を啜った。
僕も、覚えておきますなどと返しながら食事を再開する。
今年の春に日本支部へと採用されたばかりの僕は、財団職員としても、一研究員としても、いまだに慣れぬことばかりだ。とりわけこの財団という職場は、奇妙なストレンジャー物品を扱う業務のせいなのか、その職員までも変質者ストレンジャー紛いな曲者ばかり揃っている。そんななか、何かと気を配ってくれて、尚且つ数少ない常識人である博士は僕の生活のなかで半ば癒しとなっていた。
向かい合い食事をしながら談笑して、ふと気づく。今日は博士の笑顔が多い。いや、基本的にはいつもニコニコしている人なのだけれど、今日は普段より二割は増しているような気さえする。
「博士、今日はいつにも増してご機嫌いいですね」
訊ねてみると、彼は照れ臭そうに笑みながら「ありゃ、わかるかい」とこぼした。
「実はね。ずっと希望していたオブジェクトの研究がね、許されたんだ」
「それはよかったですね。どんなオブジェクトですか」
「簡単に言うと、鉱石のなかを泳ぐ魚さ。魚……に見える、が今のところは正しいんだけど。なにしろ食事やら繁殖やら、そういう生物的な要素については、なにひとつ判明していなくてね」
へえ、とうなずく僕に博士は語る。
「形態は一般的に知られる魚類とうり二つ。それが鉱石やら岩石やらのなかを泳いでいるんだ。昔から世界中で見つかってるもんだから、オブジェクトとしてのナンバリングも各支部でバラバラでね。ちなみに日本と中国支部での通称は“石中魚”。なんでも古い文献から取ったらしいんだが……」
ううん、なんという本だったかなあ。そこで悩み始めた博士に、僕は助け舟のつもりで問う。
「それで、なぜ博士はそのオブジェクトの研究を希望したんです」
途端に、彼の顔に輝くような笑顔が戻った。
「そりゃあ、綺麗だからさ」
「……綺麗?」
思わずおうむ返しにつぶやいたそれに、しかし博士はうなずく。
「昔……入団したての頃にね。ある富豪がこのオブジェクトを保有してるってことで、一般職員のほかに当時の先輩と、僕とで、その人のところへ訪ねたんだ。勿論、財団に収容するための説得と交渉にね。そのときに、見たんだ……」
彼の瞳が、どこか遠くを眺めるように細められる。
「あれは……美しかった。本当に。煌めく宝石、ルビー、サファイア、エメラルド、クォーツ……そのなかを、優雅に舞う熱帯魚……」
彼ははっとしたようにこちらへと目を戻すと、恥ずかしそうにひとつ咳をした。
「その富豪はね、数々の巨大な宝石を惜しみなく使った、豪華な入れ物を……このオブジェクトのためだけに用意した水槽を持っていたんだ。その中を泳ぐオブジェクトがね、これが並みの美しさじゃあなかったんだ」
僕はうなずきながらその光景を思い浮かべてみる。……たしかに、それは綺麗だったのだろう。貧困な想像力しか持たない僕でも容易に理解できた。
と、そこでふと気になる。
「それで。その豪華な入れ物は、今は? オブジェクトごと日本支部に収容されているんですか」
言いながら、まあ、オブジェクトのみならず宝石まで手放すわけはないか、と自身で思う。だが、そんな素朴な疑問に対して、博士は言いにくそうな顔で目を逸らした。
「……その富豪はね、財団に多額の援助金を申し出たんだ。それで、なんの権限も義務もない、外部職員扱いになった」
ああ、とここで僕にも事情が伝わる。つまりもなにも、賄賂か。
「ちょっ、いいんですかそれ。オブジェクトの話でしょう」
声を荒げる僕に、博士は本当に苦々しい顔で、
「まあ、今まで特に危険性が確認されたためしのない安全なオブジェクトだったから……。それに一般人の目に触れさせないという契約も結んである」
それに上層部が決めたんだ、きっと今までにもこういう“特例”はあったに違いないさ。そう結んで、紙コップに注がれた緑茶を飲んだ。
僕はそれを同じく苦々しい気持ちで眺めながら、同時に「財団にも黒いところがある」という噂を思い出していた。……まあ、たとえ世界を股にかける財団であろうとも、いや、だからこそ、資金はあって困るものではないし、逆に足りないものではあるだろうが。
……と、そこまで考えたところでかぶりを振り、気分を切り替える。博士との会話に意識を戻そう。
「まあ、そこはいいです。よくないですけど。……それで、えっと、たしかそのオブジェクトの研究が許されたんでしたよね」
「……ああ、そうなんだ」
博士も目頭を揉み、追従する。
「世界中の支部に散らばっているこのオブジェクト。これをすべて一か所に集めて、現在判明している全種類を用いた実験をしようと提案してね。同時にそのまま日本支部で統合管理に移る、というわけなんだが……。今まで殆どなにも判明していなかったものだから、案外とすんなり通ったよ」
まあ、と。そこで博士は普段の笑みを取り戻した。
「まあ、退職間近な老いぼれの、その最後の我が儘を上司たちが聞いてくれた……という面もあるだろうがね」
「人徳ですね」
うなずきながらスプーンを置く。気が付けば、あんなに不味いカレーライスも食べ終わっていた。腕時計を確認すると、上司より許された休憩時間も残り少ない。次の実験はたしか……。
そんな僕の様子を見て、博士は穏やかに促した。
「君の階級じゃ、なかなか時間がないだろう。私は気にしないから、行っておいで」
「すみません」
軽く頭を下げ、食器を持って立ち上がる僕に彼は続けた。
「例のオブジェクトがここに届いて、実験は……そうだな、来月にはもう始まっているだろう。幾つかはそのまま私の研究室にも持ち込むつもりだから、君もよかったら見においで」
「はい、そのときは是非。それでは失礼いたします」
再度頭を下げて、僕は足早にその場を去った。博士は相変わらずのにこやかな顔で送り出してくれた。
……この後、普段と変わらぬハードワークを終えた僕のもとに、上司より更なる業務が任じられる。
忙しい日々が続き、結局、僕は博士の研究室へと立ち寄る暇もないまま、季節が一つ過ぎ去った。
2.
気が付けば早いもので、10月になっていた。
博士とはあれから話していない。僕自身が非常に忙しかったこともあったし、彼は彼で随分と熱を入れて研究に没頭していると風の噂で聞いていた。それにサイト-8169はとんでもなく広大だ。普段の僕の研究分野と博士の分野はだいぶ異なっているから、互いの生活空間もしたがって遠い。会おうと思わなければ、偶然に出会うことはなかなか難しい環境だ。
さてそんな日々の中、ボノボの世話をする同期の「俺は動物園に就職したわけじゃないのに」という愚痴を酒を交えて聞き流した翌日。
久しぶりの休暇を与えられた僕はとくにこれといった用事も思い浮かばなかったので、じゃあ、ご無沙汰の博士を訪ねてみようと考え至った。
休日であろうと、職員ならばサイトへの入場は可能だ。今日は博士の非番ではなかったはずだし、噂では彼は最近、泊まり込みで研究をすることもあるという。もう若くない年齢で、よくぞそこまで熱心に研究ができるものだと思う。その点では、博士もまた間違いなく変人だらけの財団が一員であることには変わりなかった。
「博士、僕です。お久しぶりです。いらっしゃいますか」
彼の研究室前に佇み、扉の横のインターホンを押してそう話しかける。インターホンよりも上部に取り付けられた在室証明パネルには、きちんと「在室」の文字が光っている。
インターホンのカメラが一度焦点を合わせ、ジジッ……と小さなノイズが走ったのち、電子変換された博士の声が聞こえてきた。
「……ああ、君か。久しいね。ロックを解除するから入っておいで」
同時、強化金属製のドアがひとりでに開扉する。
「ありがとうございます。失礼します」
声をかけてから扉をくぐり、と、そこで僕は思わず声を漏らした。
「うわ……」
見る限りに、水晶。蛍光灯の乾燥した光の下、研究室を余すところなく数々の玉が並べられていた。なかには別の宝石もいくつかあるが、殆どが水晶のようにうかがえる。
よく似非占い師のイメージにて語られる拳大のものから、いったいどのように入手したのか、大きな水槽ほどのものまで実に種々様々である。
そしてそれら鉱石のなかを、色とりどりの様々な魚が躍るように泳いでいた。
「ああ、それは人工水晶だよ。いくら財団でも、この大きさと純度を天然で用意するのは難しい」
僕の視線の先をたどったのか、部屋の奥からそのような声が届く。
「あ、博士…………ッ」
慌ててそちらへと目を向けて、そこで再度僕は驚愕した。
「ど、どうしたんですか。なんか、顔色悪いですよ」
博士はなんでもない、と答えて微笑むが、その顔は若干青白い。躰も少し痩せたように見え、全体的に病気か何かでやつれたかのような印象だ。
「どこか、お具合でも……」
心配するこちらを見やり、彼はゆっくりと首を振った。
「なに、大したことじゃあない。たださすがにこの歳になると、体もいろいろとガタがくる……それだけの話だよ」
それより、こいつらの話をしよう。
そう言って僕の肩を叩くと、博士は部屋中に並ぶ水晶玉を指差した。
言われ、再び目を向ける。彼が示した水晶には、暖色系の色をした魚が、長いヒレをドレスの裾のように揺らしながら舞っていた。くるくると玉のなかをめぐり、時折方向を変える。
改めて見ると、それは、とても不思議な光景だった。
明らかに石なのに、そのなかをあたかも水中であるかのように泳ぐ魚。クォーツはきらきらと輝き、光源があの無味乾燥の蛍光灯であるとは信じられないほどだ。
「……触っても?」
問えば、博士は快くうなずいた。
滑り落とさぬように注意しながら玉を持つ。持ち上げて、顔の前まで近づけてよく見てみる。……まるで、本当に水中であるかのよう。小さな魚は涼しげな顔で優雅に踊る。
「……綺麗だ」
気付いた時には、そうこぼしていた。
はっとして横を見ると、博士が満足そうな顔でうなずいている。
なんだか照れ臭くなり、水晶玉を元に戻す。
「それで、なにか新しく判明したことはありましたか」
ごまかすようにそう訊ねると、彼は咳払いをしてから語りだした。
「そうだね、まずひとつとして、どうも“成長”しているようなんだ」
「成長?」
博士は首肯して、
「時間の経過と共にね、本当に少しずつなんだが、体積が増えている。個体差はあるがね。これはつまり、こいつらは生きている、生物なんだ、という推測の補強になる」
それから……と、博士はその後も様々な実験結果を話してくれた。
その話はやがて、彼自身の持論へと繋がってゆく。
「最初にも言ったが、現在判明しているものは158種だけで、他には見つかっていない。しかし考えてもみたまえよ、こいつらは魚類とこんなにも酷似した姿をしている。……ならば、その種類もまた同様だとは思わないかね」
生き生きとした表情でそう語る博士に、しかし僕は言葉を濁す。
「と、いうと……」
「つまりだ。魚はおよそ30000種近くいるとされている。ならば同様に、このオブジェクト……SPC-XXX-JPもまた、そのくらいの種があってもよいではないか。もしかしたら、今こうして話している私たちの足の底、地下深くの岩石の層をちょうどこのときクジラの種型が横切っているところかもしれない。そういう話だよ」
……クジラ。
口の中で呟いてから、そういえばこの部屋にあるオブジェクトは殆どが小型の魚類だなと気付く。そうしてから、家ほどの大きさを持つ巨大な影が、人知れず、この足のはるか下……深い暗闇のなかで蠢いている……。
そこまで考えて、なぜか僕はぞくりと背筋が震えた。
こんなにもしっかりと足をつけているのに、生まれてこのかた絶対の信頼を置いてきた大地が、まるで唐突にその堅牢さを失ってしまったかのような錯覚がした。
半歩だけふらつく程度におさめ、下降した気分をなんとか隠す。
「……というか、クジラは哺乳類じゃないですか!」
かろうじて、なんとかそれだけを言い返した。
「はは、そういえばそうだね。私も歳だなあ」
博士は明るく笑い、そこには僕のような漠然とした不安を感じている気配は微塵もない。なんだか情けなくなって、僕もまた小さく笑った。
それから更にしばらく談笑を続け、夕方に近づいたことを機に僕は研究室を暇することにした。
「それでは今日は本当にありがとうございました」
研究室出入り口の前で礼を述べて軽く頭を下げると、博士もまた笑みを浮かべながら送り出す。
「いや、久しぶりで私も楽しかった。また来なさい」
はい、と返事をして。僕が潜ると共に金属製の扉が閉まる。情緒もなく人と人とを遮断した鈍色のそれを数秒ほど眺めてから、僕はようやく帰途へとついた。
やはり博士との時間は楽しかった。オブジェクトも話の通りにとても綺麗だったし、休暇を潰しても来てよかったな。
そんなことを思いながら。
研究室で途中に感じた妙な不安については、すっかりと忘れていた。
3.
年が明けた。しかし、こと財団職員に年末年始の休暇などはない。合衆国や英国や、その他の海外支部にならばあるかもしれぬが、とんでもないことに日本支部には存在しない。上司から放られた業務に加えて、重大な収容違反によってDクラス職員になってしまった元同期から押し付けられた役割、ボノボの世話の手伝いもしなくてはならない。
ああ、忙しい……。気分としては、師走が過ぎて、師走がやってきた。そんな感じである。
そんな日のことだった。書類を運ぶ僕の目前、老職員が一人廊下に座り込んでいた。
「大丈夫ですか!?」
慌てて駆け寄り、顔をうかがう。と、そこで思いもよらぬそれに再び驚く。
「って、え、博士?」
ロマンスグレーだった髪はすっかりと総て白髪になり、背もいくらか小さくなったように感じる。座り込んでいた老職員は、見知っていたはずの博士の、その変わり果てた姿だった。
「……ああ、君か」
瞬間に想像したよりも余程しっかりとした口調で答えると、博士はゆっくりとした動作で立ち上がる。
「だ、大丈夫ですか」
おっかなびっくり訊ねる僕に、彼は以前と同じ笑みを浮かべると、
「ああ、もう大丈夫。ありがとう。……いやあ、私もすっかり老人だね」
人生老いるは早いというが、本当だなあ……。そんなことを嘯く彼を、僕はただ眺めることしかできなかった。
「ほら、なにを呆けているんだい。君は君の仕事をしたまえ」
博士に肩を叩かれて我に返る。
「でも、博士……」
「私は大丈夫だから。……おっと、もうこんな時間か。はやく研究室へ戻らないと」
それじゃあ、と言って博士は廊下の隅へと消え去った。
僕はそれを、やはりただ見ていることしかできず、やがてかぶりを振ってから自身も実験室へと急いだ。
道中、博士のことが頭に浮かぶ。
なんでも最近になって、研究の担当をしていたいくつかのオブジェクトをひとつを除いてすべて引継ぎしてしまったらしい。退職もとうとう迫る今年は、彼には好きなようにやらせてやろう……珍しく仏心を見せた上層陣の心意気が、それらを許可したことでうかがえる。
彼は、大丈夫だろうか……。
見ないうちに随分と老け込んでしまった、歳の離れた友人……と勝手に思っている博士を想う。
近いうちに暇を見て、また顔を見せてみようか。電灯の乾いた光の下、宝石のなかを泳ぐ不可思議な魚を観察している彼の姿を思い浮かべる。
きっとそのときは、また瞳を輝かせて研究成果や推論について聞かせてくれるのだろう。
……それからひと月ほどが経ったのち。
博士の死亡が知らされた。
「……どういうことですか」
震える声で訊ねる僕に、上司は沈痛そうな表情で繰り返す。
「だから、先ほど博士の死亡が連絡された。研究室で眠るように……そんな状況だったらしい。医者の診断は老衰だそうだ。事件性はない」
相も変わらず穏やかな顔だったそうだから……きっと苦しまずに逝けたのだろうよ。まあ、最近なんかは随分と歳を感じていたらしいしなあ、寿命ならしゃあないさ。……そんなことを言ったのち、上司はさっさと仕事に戻れよ、とだけ残して去って行った。
4.
それからしばらくして、博士の研究室の整理が行われることになり、比較的親しかった僕もそこに呼ばれることとなった。
「ったく、こういうときこそ下級職員の出番だと思うんだがなあ」
先輩研究員のひとりがそうこぼし、「仕方ないさ」とまた先輩のひとりが答える。
「大事な研究データが混じっているんだ。クリアランスレベルの低い職員には触らせられないよ」
「ちぇっ」
それでも尚ぶつくさと何かしらの文句を言いながら、彼は書類の詰まった段ボール箱を机の上へと置いた。
そんななか僕はというと、比較的に研究データが混じることの少ない、博士の私物周りの整理をさせられていた。
家族の写真の入った木枠のフォトフレームを段ボール箱へとしまい、これまた私物らしき小説もそこへしまう。と、そこで本の隙間から栞がこぼれ、ひらりと仮眠ベッドの下へと入っていった。
「おっと……」
箱をどかし、体をかがめる。栞を探すためにベッドの下をのぞいて、そこで僕は思わず声を出した。
「ん、どうした?」
それを聞いた先輩が声をかけてくる。それに対し、僕はベッドの下から取り出したものを掲げて見せた。
「水晶?……ああ、例のオブジェクトの入れ物か」
納得する彼の横から、もうひとりの先輩が「どれどれ」と手を伸ばして奪い去る。
「はあん、これんなかを魚が泳ぐわけね」
「……この水晶は、私物……いや、財団の備品かな。実験用具だったわけだし」
二人の先輩が手の中でもてあそぶ水晶球には、あの奇妙な魚の姿はない。
仮にもオブジェクトなので、博士の死後、彼の借り出していた物はすべて収容室へと戻された。……そういえばその際、奇妙なことが判明したという。博士の借り出すオブジェクトの数は月日を経るごとに増えていき、ここ最近では203体の殆どすべてを借り出していたらしい。
だがまあ、それも、実験室まで訪れるのが億劫になった博士が研究室でそのまま研究を続けられるようにしたのだろう、という結論に至り、すぐに職員らの中から忘れ去られた話題であった。
「そういえばあのオブジェクト、研究が凍結されるんだってな」
「ま、担当希望者なんてそうそういないさ。なんの危機も感じないし、解明したって何に応用できるわけでもない」
話す先輩らに背を向け、自身の作業を再開させる。
そうしながら、頭の中にはあのオブジェクトと、それについて話す楽しそうな博士の姿が浮かぶ。
『そのときに見たオブジェクトがね、とても綺麗だったんだ……。煌めく宝石の海を、自在に舞っていて……』
私物と備品の分別をしながら、脳の裏では彼の言葉が次々に再生される。
『だって、そう思わないか。今こうしている私たちの足の下、地下深く、そこをクジラのような姿のオブジェクトがちょうど横切っているところかもしれない』
と、そこで手が止まった。
その話を実際に聞いたときに自身が感じた不安についても思い出し、そして……
しゃがみこんだ自身のその足元の底深く、誰にも感知されない常闇のなかを個々に蠢く膨大な数の何か。
地を透かすように幻視したそれに、僕は思わずのけぞって尻餅をついていた。
「うお、どうした」
驚く先輩に曖昧な言葉を返しながら、僕は途端に荒くなった息を抑える。
「本当に大丈夫かよ」
呆れる先輩に、しかし僕は大丈夫だと答えることしかできない。
立ち上がろうと足に力を入れ、……一瞬だけ地が踏ん張りをそのまま呑みこんでしまったら……などと考えてしまうも、何事もなく、地は常のように絶対の硬さでもってそこにあった。
立ち上がる。
かぶりを振って妙な思考を追い出して、僕は単純な作業へと戻っていった。
……心のどこかで、博士があんなにも綺麗だと言っていた、石を泳ぐ魚。ただそれだけの、あのオブジェクトについて、拭いきれぬ不安感や不信感を抱きつつあることに気が付きながら。
……僕がSCP-XXX-JPに対する再調査を申請し、それが受理されるのがそれから一か月後の出来事。
そしてその新たな性質について知ってしまうのが、それから更に一か月以内の出来事である。
そして。
「よかったじゃないか。今回の結果で、お前もとうとうレベル3職員か」
肩を叩く同僚に、僕は曖昧な言葉しか返せない。
「しっかし、魂魄搾取とはねえ。距離を稼ぐ……近づかないほかに、防げる手立てが未だに殆どない系統だ。よく気付けたな。こりゃあ、たしかに昇進ものだ」
笑う彼の横で、僕は舐める程度だけ酒に口をつける。
「おいおい、さっきから何をちびちび飲んでんだ、これはお前の祝いの場だぞ」
また別の同僚がもう片方の肩から腕をまわす。
「そうだぞ、俺だって厳しい規制のなか来てやってんだ」
さらにその向こうから、ジョッキを手にそう言うのはとんだバカをしてDクラスになった同僚である。一応、これからの貢献次第ではまた一般研究員に返り咲くことは出来るらしいが。
「おまえはさっさとCクラスへ戻れ!」
誰かがそう叫び、辺りは笑いに包まれた。
それでもなお素直に笑えないでいる僕に目ざとく気付いた同僚がささやく。
「担当から外れても、まだSCP-XXX-JPあれのことを気にしているのか? でもお前、おそらく効果範囲は数メートル程度に狭いだろう……ってのはお前自身が調べた結論じゃないか。それに、博士の死は……あれは、203体という数がおおよその原因なんだろう? 数匹程度なら、たとえ一緒に暮らしても……10年程度は持つ。あれは嘘か?」
「……本当だ」
重い口調で答える。実際、記録した搾取効率からの計算上ではそのように出たし、所持によって死亡と再確認された一般市民(富豪)らも入手から10年以上は生きている。博士は、その百倍以上の数のオブジェクトと共に生活したために、わずか一年足らずで死に至ってしまった。
あの生命体は、搾取効果範囲に存在する同族の数が多ければ多いほど、加速度的に搾取量を上げていく。それがなにを思っての行動なのかはわからない。……大事な餌を他の個体に奪われまいとしての行動なのかとも考えられるし、全く別の可能性も考えられる。
「なら、いいじゃないか」
そう結論して酒を呷る彼を横目で見、しばし逡巡したのちに僕も同様にグラスを傾けた。
「お、いいねえ」
にやりと笑う彼に、僕もぎこちなく笑みを返す。そこに別の同僚がまた肩を組んできて、話題を振り、誰かがふざけ、辺りは再び笑いに包まれた。
今度は僕も小さく笑いを浮かべ、そうしながら。
……でも、と。
小さくつぶやいた。
でも、しかし。君たちは気にならないのか。今こうしている僕らの、この足の下。その遥か地中深くには、あの魂を喰らう謎の生物が、無数の数で蠢いているだろう事実を。
……三万、と。
三万近い数があるかもしれない、とかつて博士は言っていた。しかもそれは種類数であって、個体数ではない。もしそうならば、もっと……もっと多くの個体が今もなお地中に潜んでいる。
……いや、勿論わかっているさ。
もしもそうだからといって、僕らの生活には何の影響もないはずであることくらい。
地中にある岩石の層、それは地表からは何十メートルも離れている。搾取効果範囲の外だ。
だから、大丈夫。関係ない……そのはずだ。
そう、思っているのに。
どういうわけか、僕の気分はずっと優れないでいたのだった。
……ふとしたときに脳裏をよぎるのは、あの魚。
あの、朱い、綺麗な、水晶を泳ぐ優雅な魚……。
アフリカで、老若男女を含む住民150人が、すべて老衰死の状態で見つかった村がある。
……そんな情報が財団の耳に入ってくるのは、それから5年後のことだった。