碁盤目サンドニウムボックス

 笑いとは張り詰められていた予期が突如として無に変わることから起こる情緒である。―カント
 
 
 
 
 
 
 
  
 
 その部屋には、五人の男の人がいました。
 珍しい書籍を詰め込んだ本棚、世にも奇妙な魚たちが泳いでいる水槽、ぞろりと並べられた大小様々な動物の精巧な剥製、怪しげな輝きを放つ世界各地の風変わりで貴重な品々…そこは、ある男の人のコレクションを飾り立てた、“驚異の部屋”でした。男の人は、それらを見せようと、友人たちを招待したのです。
 そこに集められた物の中で、最も友人たちの興味を惹いていたのは、部屋の真ん中に座っている、十六歳ほどの女の子でした。
 少しばかり色が薄い彼女の右腕は欠けていて、そこからは、何とも言いがたい素晴らしい薫りを放ち、月のように淡く輝く、月下美人のようなが咲いていました。
 友人たちは、そのような不思議なものを見るのは初めてでしたし、男の人は、まさにそれを見せるがために彼らを家に招いたのです。彼らはその子をじろじろと見ては、綺麗だ、美しい、と褒め称え、その度に女の子は微笑を浮かべました。
 さて、男の人たちは、ワインを空け、グラスを手にとって、様々なことを語らいました。女の子は、窓の外に見える月をぼうっと眺めていました。

 すると、どういうことでしょうか、部屋にあった鳥の剥製のひとつが、小刻みに震え始めたのです。
 そして、唐突に綿を詰め込まれた翼をばさりと広げ、かつての獰猛な心持ちを思い出したかのように浮き上がると、持ち主である男の人目掛けて飛びかかりました。
 爪が眼に食い込んで、左の目玉がずるりと出てきました。剥製は男の人の頭をつつき、彼の髪の毛や頭皮を喰い破り、ピンク色の脳をあたりに撒き散らします。
 男の人は、ふらふらと歩きながらも、
 「きいきい、きいきい、聞こえるか!?ご覧、ご覧、ご覧あれ!ほら、多くの鳥が鳴いている!多くの鳥が叫んでいる!空に歌い、地を蹴り、ああ、しかし!今の彼らを聞こうではないか!彼等には声がない、羽根がない!刀を加えても、これでは誰も悲しまない!」などと、あらんかぎりの大声で叫んでいます。

 友人たちは、この残酷かつ不気味で意味のない出来事に、ただただカタカタと身を震わせ、腰も抜けて、事の成り行きを見守るしかありませんでした。
 女の子は、視線を男の人に向けましたが、怖がりもせずに黙って座っていました。
 
 不意に、水槽の中から、白黒のウイングチップの靴とロイヤルブルーのスリーピース・スーツを着用した、顔が影で隠された男の人が現れました。
 そのせいで、何匹かの魚は床に落ちて、力なく跳ねています。
 「微笑もう、そして笑おう!」とその人は言って、本棚に隠されたカメラを示します。
 すると、友人の人達は、「なあんだ、ドッキリ番組か」と納得し、ある人などは、突然登場した有名人にサインをねだりました。
 それから、皆で、血を流している男の人も一緒に、笑いました。
 なぜかって?そのドッキリが余りにも手が込んでいたからです。
 ……ほら、まだ男の人は脳漿を垂れ流してる。
 
「『剥製』! 動物の皮をしっかり乾かして、中に芯を入れ、あたかも生きているかのように見せられた……死体さ! みんなはこれらを単なる物言わぬ隣人と思っているんじゃないかな? それは間違いだ! それらはバッチリ動くし、もちろん、笑いの種になる! ほら、こんな風に! 笑えないことなんてないんだ! そういうことを伝えるために僕らはここにいる! だから、みんな! 笑おう! 笑うってのは良いことだ!みんなで一緒に……」

 〆の台詞を中断して、男の人……ラフィー・マクラファーソン氏は、部屋の真ん中に座る、花を生やした少女を見ました。
 彼女は、ちいっとも笑っていなかったからです。微笑みの一つすら浮かべていませんでした。
 「……麗しいお嬢さん。 どうして笑ってくれないんだい?」
 その言葉に反応して、女の子は微笑みました。しかし、それが『麗しい』という言葉のせいであることは、マクラファーソン氏にははっきりとわかりました。
 笑ったことはあるかい?氏はそう訊ねます。よくわからないわ、と、女の子は答えます。

 「……しあわせ、というのはわかります。 わたしが、うつくしい、と思われること。 ……でも、笑う、というのは……ううん。 ちっとも、ちっとも、わかりません」

 たどたどしく、少女は話します。しゃべる、ということは、自分にとってふさわしくないことだ、と彼女は思っていました。
 マクラファーソン氏は、つかつかと女の子に歩み寄り、両方の人差し指で、彼女の頬っぺたをくいと上げました。女の子は、今までそんなことをしたのは一度もなかったので、何だかヘンテコな表情になってしまいました。

 「うん、うん。変わったヒトだね、君は。でも大丈夫だ!必ず君を笑わせてあげるよ!誰にだって笑う権利、いいや!義務がある!愉快なものを見て、思いっきり笑うっていうね!それは人間には、否、ヒトの形をしたものにはすべからくあるものだ!次こそは君も笑って、僕らと一緒に笑ってくれるだろう!」

 それから、マクラファーソン氏はカメラに向かって一礼しました。
 
 

 男の人はいなくなってしまって、二重螺旋のマークをつけた人達が、彼女を部屋から別のところに連れ出しました。
 その人達は、日本生類創研で働く人たちで、女の子は、その企業の用意した収容施設に入れられました。
 そこにも、マクラファーソン氏は現れました。
 『電灯』をテーマにした、胎児が交尾をしながらロナルド・レーガンによく似た腫瘍をフラクタル状に発達させ、「この壁を壊しなさい!」という有名な演説をパッヘルベルのカノンに乗せて唄う、というドッキリは、日本生類創研の人々を大いに笑わせました。
 しかしながら、女の子は、少しも笑いませんでした。
 
 そのあと、職員の変死と失踪、それに関係していると思われる奇妙な男に気付いた彼等は、すぐさま彼女を施設から追い出しました。
 厄介事の処理を、財団に任せることにしたのです。

 そういうわけで、彼女のいる財団の標準ヒト型収容ユニットにおいても、ドッキリが開催されました。
 テーマは、『怪奇部門』。
 ユニットに出現した、“緋色の七”というプラカードが貼られた扉を開くと、そこには偽物の処置110-モントークを幾度となく受ける、偽物の緋色の王がいました。博士たち、エージェント、機動部隊隊員、Dクラスはゲラゲラと笑いました。
 偽物の処置110-モントークがとっても滑稽だったからです。
 でも、それを見ても、やっぱり女の子はくすりともしませんでした。
 
 財団は、女の子をより一層深いところに隔離しました。自分達の足元で、残虐なSkipが我が物顔で悪事を働くのが許せませんでした。
 精神の安定のためにかけられる、容姿に関する無数の称賛の言葉を聞いて幸福感を感じること以外に、女の子のするべきことはありませんでした。
 

 さて、マクラファーソン氏は、その日の別の収録を終えました。『シルクロード』が、そのビデオのテーマでした。
 ひたすらに伸ばされた老婆の銀色の髪の毛の上で、特別な相手、ちっとも笑わない女の子のことを彼は考えます。
 彼女を何としてでも笑わせなければならない、と彼は固く決意していました。
 
 

 
 一瞬の出来事でした。美しく輝く花を持った女の子は、カメラにも映らぬような刹那の間に、収容ユニットからいなくなっていたのです。
 さて拐われた女の子は、いつの間にか目隠しをされていました。しかし、彼女は動揺していません。平然とその目隠しを取り外し、辺りを見渡しました。
 そこはジャングルでした。熱帯の蒸し暑い、大きな木々の隙間というべき場所でした。
 少女は眼を見張りました。
 その空間一体に、己の右腕に生えたものに良く似た花たちが咲き誇り、素晴らしい芳香を漂わせていました。
 ジャングルの黒々とした樹木の遥か向こうには、数え切れないほどの星が、彼女の花のように輝いていました。
 ずうっと部屋の中にいた彼女にとって、初めて見るものが溢れていました。

 その幻想的な光景の中で、女の子はあるものに眼を留めました。
 それは、足元にいた蟷螂です。蟷螂は、その大きな、しかし人からしてみれば小さな鎌で蛾をむんずと捕らえ、頭をかじっているのでした。
 そして、少女の視線に気が付いたかのように、首をかしげるような仕草をしました。
 女の子はかがんで、その捕食活動をじいっと見つめました。
 蟷螂はちまちまと、蛾の頭から流れ出る透明な血液を啜っています。顎でその肉を砕き、咀嚼し、貪るのです。賤しく、無心に、ただ餓えを充たすことに対する、深く、真摯な、無意識の喜びをもって……。
 後ろの木陰から出てきたマクラファーソン氏にも全く気付かずに、少女はそれを眺め続け……突然、笑いだしました。
 蟷螂が生きてそこにいる、それだけのささやかなことが、とてつもなく愉快でたまりませんでした。
 ……それは、とある哲学者が、歪な木の根の存在に吐き気を覚えたのと、同じようなことです。

 ……それは実に奇妙な笑いかたでした。マクラファーソン氏だって、涙を流しながら、嗚咽の混じった奇声を上げ、腹をよじって笑う人を、そうたくさん見たわけではありません。
 ……もちろん、彼女が笑ったのが、これが初めてだったから、こんな不思議な笑いかたになってしまったのです。

 「あはは……これが、笑うってこと、なのね」
 発作が終わった女の子は、花を傷つけないように、そろそろと立ち上がりながら言いました。その言葉は、いつにもましてふらついていました。
 「あはは、ええと、こういうのを、おかしい、とか、ユカイ……って言うの?」
 その問いに、顔の見えない男は頷きます。男は、笑顔です。

 「ユカイ、ユカイ。みんな、こんなふうに生きてるってことなのね。生きているって、こんなにもおかしくって……こんなにも、笑えることなのね。ほんとうに、ほんのちょびっとだけ、花にはわからなかった、動いているヒトのこと、それがわかったわ」

 やあっとわかってくれたようだね。 黒いスーツの男は、笑顔のまま、彼女に語りかけました。

 「『生きる』ってことをテーマとするドッキリ、よかっただろう? そう、こんな風にさ、生きるってことは、とんでもなく滑稽で、笑えることなんだ。 人間にとって、いいや! この宇宙に在るすべて存在にとって! ……だから、一緒に笑ったことを、笑顔を忘れちゃダメだよ!僕たちと一緒に笑ってくれて、本当に本当にありがとう!綺麗な綺麗な、生きている君よ!」

 それを聞いた女の子は、心の底からにっこりと笑いました。
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 さて。
 翌日、床に横たわって冷たくなっている、ヒトのふりをしすぎた植物の女の子……SCP-1027-JPの一個体が、収容ユニットから回収されました。
 顔にまだ笑みを残したその死体をどう処理しようか、財団の職員たちが決めあぐねている間に、いつの間にかそれはなくなっていたとのことです。