「君が絵について言ったことを考えた。
眠らずに考えて、ある結論がでてー そのあとは君のことを忘れてゆっくり眠ることができた。君は自分のことをわかっていない子供だ。美術の話をすると君は美術本の知識を。ミケランジェロのことも詳しいだろう。彼の作品。政治論。法王との確執。セックスの好みも。だがシスティナ礼拝堂の匂いを?あの美しい天井画を見上げたことが?ないだろうな。女の話をすれば君は好きなタイプを挙げられる。女と寝たこともあるだろう。でも女の隣で目覚め真の幸せを感じたことが?君は難しい子だ。戦争の話ならシェイクスピアを引用。’’もう一度突撃を 友よ’’ だが本当の戦争を?撃たれた友を抱いて息を引き取るのを見守る気持ちを?愛の話をすれば愛の詩の引用をするだろう。自分をさらけ出した女を見たことは?目ですべてを語っている女。君のために空から舞い降りた天使を。君を地獄から救い出す。君も彼女の天使となって -彼女に永遠の愛を注ぐ。どんな時も。癌に倒れたときも。二か月の間病院で彼女の手を握り続ける。医者も面会規則のことなど口に出せない。自分への愛より、強い愛で愛した人を失う。その悲しみと愛を君は知らない。今の君が知性と自信にあふれた男?今の君は生意気なおびえた子供だ。だが天才だ。それは認める。でも絵一枚で、君は傲慢にも僕って人間を切り裂いた。」
(中略)
「君から学ぶことは一つもない。すべて本に書いてあるから。君自身の話なら喜んできこう。君って人間に興味があるから」
「でもそれはいやなんだろう?あとは君次第だ。」
「旅立ち」1997.
掃除の日は28日です。私の体は健康です。自分の居住スペースを誰かに荒らされることも嫌です。私は自分でベッドから起き上がり病室に立ちます。掃除は上から始めます。カーテンを動かすことは滅多にありません。カーテンについた埃を払うためにはカーテンを開ける必要があることを知っています。私はレールの上に手を伸ばし布切れでレールを拭きます。そしてカーテンを軽くはたきました。細かな埃が部屋中に広がり、私は目を細めます。目を細めた先に少しきらきらとした何かを見た気がしました。次は寝具です。シーツをはがし、マットレスを外し廊下に放り出します。枕も同じです。こうすれば誰かが気づいて持って行ってくれるでしょう。気づかれなくても彼らに任せていれば大丈夫です。手すりを布切れで拭きます。ここは人が頻繁に触れていく場所なので埃ではなく皮脂をとる感じになるのでしょうか。少しばかり布を濡らしておくと綺麗に掃除することができます。生活感は良いものではありません。いつでも綺麗な状態で彼らを迎えたいものです。それを考えると私はとても嬉しくなります。手は下に下にと進みます。来客用の椅子に手をかけます。表面を拭くことは勿論ですが今月は少し付け足します。先日、彼がここでグラスを割ってしまったのです。すぐに床は拭かれましたがクッションに破片が残っていたら大変です。ガムテープいろいろなことに使いました。そして今日も使われます。くるりと手にガムテープを回しその手でぺたぺたとクッションを叩きました。ぺたぺた。ぺたぺた、と、十分でしょう。不規則な行動は私に肯定を与えます。床に置かれた花瓶を見ます。彼が割ったものがこれらでなくてよかったと心から思います。大切なものは高い位置に置くべきだとも思いますがこの部屋に入る人間全員、これらを持ち上げる力か気持ちを持ち合わせてはいませんでした。ただ置き場に困った花瓶が隅に置かれています。動かすのも面倒なそれの表面を指でなぞると白くつるりとした面が顔をだし、一方私の人差し指には1か月分の埃が層になり付着しました。花瓶の底に目が行きました。はい、見つけたのは花瓶の底の跡です。埃のかぶっていない綺麗な半円が床にあるのです。誰かが花瓶を動かしたのでしょうか。床の掃除は終わりが見えないので嫌いです。たまに気まぐれに彼が床を掃除してくれることもありますが私はあまりあれの効果を認めていません。ただ少し、これは気になるので境目を軽く均します。土足で立ち入る場所です。どうせ彼らが汚す場所です。床は私の管轄外なのでした。以上で工程は終わりです。ベッドの骨組みに腰掛けシーツが帰ってくるのを待ちます。骨組みの奥、骨の隙間から何でしょう赤い何かを見ます。ベッドの下をしっかりと覗いたことはないです。それは床が私のものではないからです。ただ私は毎月この日だけその染みをしっかりと認識することができます。私はこれを私がここに来たときから知っていました。ただ言いようもない疎外感を常にそれから感じていたのです。だからベッド下は私のものではありません。私は彼らにこれをすべて任せています。洗濯物が帰ってくる時間は私の時間です。彼女が来る時間までまだ少しあります。私は花瓶を動かしたのは彼女ではないと思っています。彼女が花瓶を動かすには彼女の片方の腕では花瓶があまりに重すぎたからです。
「なぁ、だから戦場ってのは恐ろしくサイレントなんだ。俺は肥溜めの中で待ち伏せをして本当にクソみてぇな思いもしたさ。でもな、ここは本当に静かなんだ。俺はそこで二人撃ったんだよ。それでも俺はフラットなんだよ。」
もう先月になる。半年ばかりの長い任務から帰ってきて、彼はどこかおかしくなってしまっていた。
「馬鹿を言うなよ。お前は誰も撃っちゃいない。お前の銃はハリボテだ。」
その長い指で煙草を出そうとする男を来前は制止する。
「お前煙草なんて吸ってなかっただろ。」
互いの苛立ちが共鳴し始めている。良い事ではないとわかりながらも二者の貧乏ゆすりは机を震わせた。
「飯を食えよ。」
すっかり冷めきった盆を前に来前はまた違った苛立ちも覚えている。
「俺の話を聞いてくれるのはもうお前だけだよ。来前。あのな、俺は何度も人を殺している。当たり前だここに所属している奴で処女なんているわけがない。でもな、でも、俺はあの時人を撃ったんだ。」
「お前のその話は何度も聞いたさ。だから俺は何度もお前に返してるぞ。お前の銃は一度も発砲されていない。壊れてたから、だからお前は動けずにそこに伏せていたんだろう。」
軽く笑うその顔は出会った頃と何も変わりなく、それが来前には酷く不快であった。
「俺の銃は死んだんだ。死んでしまった。」
男は惨めに、憐れに見られた。
「銃は常に死んでるよ。お前が持つ前から最初から死んでるもんなんだよ。」
「でも生き返るだろ?銃は。」
「うん。」
男は箸を持ち、冷たくなったそれを黙々と食べ始めた。来前は望んでたそれが与えられなかったことに少し不満を感じたが男の日常的動作に安心もしていた。
「お前、いつもそうしていろよ。」
来前はこの男のことを好いていたしそれは今でも変わらなかった。会話ができる相手がお互い、互いの他いなかったからでもある。だから今のまま、いつか顔すら合わすことができなることを来前は今の時点で危惧していた。
神保来前博士は正式な顔あわせの前に一度だけ彼女を見つけたことがあった。それまで彼と彼女は書類の上でしか顔が並ぶことはなかった。サイト-81(本当にめんどくさい黒塗り)から少し離れた位置で己と彼女がすれ違った気がした。顔を捉えたわけではない。人の顔など見たくない来前がサイト内を顔をあげて歩くことはなかった。ただそのとき、左手の指輪を弄る視界の端に揺れる白衣の袖を見たのだ。振り返った時彼に見えたのは小柄な女の背中だけだった。その頃から彼は奇妙な妄想に取りつかれていた。
来前はもとより人との交流を好むような人物ではなかった。だからといって孤立してたわけではなく友人も少しはいた。勤務態度もいたって普通でそれはここでは愛されるべき平凡さであった。若さゆえ他所から浮いて見えたこともあったが今ではそれも落ち着いている。個室が手に入ったとき、彼のデスクに一枚の手紙が置かれていたことがあった。中身は彼と彼の出生地への侮蔑の言葉であり大体彼の出世への妬みからくるものだった。部屋をでていった来前がまた部屋に戻った時、彼の手の甲には人の歯が刺さっていた。またある日彼は丸一週間デスクに籠った。彼の友人がドアから定期的に食糧を投げ込んでいたが特に反応はなかった。彼が何食わぬ顔で扉を開けたとき友人は彼を激しく問いただしたが納得できる説明が返ってくることはなかった。彼奴の食欲を知って毎日こまめに食物を差し入れていた友人は今回のことがかなり頭にきたのか以前より彼にべったりになった。もともと二人は職務上直接関わることは少なかったが少ない同年代ということもあり馬が合った。二人は面白い友達だった。男は来前とは反対に社交的で体つきもよく周りからの信頼も厚かった。派遣先で火事に巻き込まれるまで男は恋人の写真を常に持ち歩いていた。来前と違い命をかける仕事が多かった男はよくその写真にキスをしていた。本当は男が死ぬ2年前から男は恋人と連絡が取れておらず、そのとき彼女には男とは違う彼氏がいた。それでも、それを確信しているに関わらず男は彼女を愛していたし女が男を愛していたかはそれに関わらなかった。男にとって御守りのようなものだった。来前は女のことをクーズと呼んだ。男はいつも悲しそうに笑ってそれを聞いていた。男が死んだとき、来前は男の恋人に手紙を書いた。それは人の核心に触れるような、読む人全てが心打たれるような彼にとって最大の思いやりだった。夏のはじめ、彼は個人的に手紙をポストに投函した。次の夏が来た。あの糞たれ女クーズは一度も返事をよこさなかった。
この時点で神保来前のもとには一枚の書類が手渡されていた。彼には朱砂の文字とその近影に確かな覚えがあった。彼はあれからずっと一つの妄想に囚われていた。そして最近はその奥に一人の女性の姿を見ている。なんと切ない事かと彼は嘆いた。しばらくシーツを変えていない、薄汚れたベッドに寝そべり目を閉じるとその闇の中を見る。大きな穴に落ち、穴は崩れた。来前の目はその薄い色素を完璧に捉えている。崩れ落ちてくる瓦礫に挟まれて、押し込まれて、また息ができなくなっていた。汗をかいている。身にかかる圧力を来前は愛と思い込みたかった。友が何かを言っている。思い出す記憶はいつも断片で、そこにはじまりも終わりもない。
「このアマが…」
漏れた声を制してくれる者はいない。マットレスに体が沈んでいく。どれが本物か彼にはもうわからなくなっていた。翌朝、男が来前に笑い話を持ちかけていた。服の裾を少し焦がして。違う。フロントで写真の女に会った。彼女は泣いていて、それでも嬉しそうにこちらを見つめていた。違う。返してもらってない本があった。そうだ。あと金も。そう。思い出す記憶はいつも欠片で、それでもあり得ないことでそれをさらに砕くことはない。来前がここを超えたとき、次に思うことは破壊であった。彼は何かを壊す欲に支配されていた。彼は人が、物が、場所が、記憶が、欲が、すべてが壊れることを願っていた。彼の友人は死んでしまったのだ。もう声は聞こえない、彼の言葉だけが来前の頭には残っていた。ここは間違っている。その通りだ。蹴り飛ばした毛布が床に落ち、来前の意識は静かに覚醒した。
朝、来前は口内を謎の激痛に襲われ、そのまま自慢の犬歯を一本抜くことになった。これは正しく医者にかかったわけでなくむしろ歯科医に己の歯を見せたくないという本人の強い希望から数名の観客立ち合いのもと一人で歯を抜いてしまったのだ。謎の痛みは取れたものの原因のはっきりした痛みはさらなる激痛を生み歯を抜いたあとの歯茎にはしばらく穴が開いたままだった。
痛みから解放されたとき、来前は彼女の肺の中で眠るようになっていた。その頃には正式に二人の会合が決定していて彼は明らかに彼女を意識するようになっていた。彼にはもう以前すれ違った女が彼女である確信があった。本当に小さく幼く見えた。自分より若い人間が同じ部署にいたら嫌でも目に入るように思えるが以前の来前には他人を意識する余裕がなかった。来前はよく彼女の頬を撫でた。そして現実の彼女も一晩中頬を触わることを許してくれるだろうか悩んだ。彼には彼女を椅子に縛り付けてでもその輪郭に触れる必要があった。彼は今でもそうするべきだと思っている。
(中略)
初めて来前は彼女と同じ空間にたった。改めてみる彼女はやはり小さく、いつものように視線を下げているわけにいかなかった。落ち着かない。仲介人はいないのか。そんな我儘が通るわけなく来前は天井を見続けた。体のだるさにここは妄想の中かと錯覚しそうになる。迦嬰は白衣のポケットから煙草を取り出し慣れた手つきで火をつけた。たまったもんじゃない来前は慌ててそれを止めようとする。
その時、来前は初めて正面から迦嬰の顔を認めた。あまりにリアルで静かだった。来前は自分の頭の重さに驚き、少し後ろに傾いた。重心が崩れてそのまま倒れこみそうになる。右足を引き体制を整えようと行動するが今度は左足の行き場がわからない。残酷なほどリアルだった。彼女に触れた指先が静かに悲鳴を上げている。恐怖と愉楽をかき混ぜて血管を危険が通り抜けている。ドラッグを注射されたみたいだ。彼は今ならどんな残虐な行為もやってのけるだろう。昂り、また落ち着き彼の胸中には畏怖だけが残った。
「煙草はやめてください。」
少し声が震えた気がする。やっとの思いで出た言葉も彼女には別の国の言語だった。そのまま煙草を一本吸い始めまたその動きからそれが一本目であることも容易に理解できた。今度は明確な意思で彼女から遠ざかった来前は部屋の隅でただ彼女の全身を眺めていた。丁寧に染色されている髪はその一方切り方がとても乱雑でその職の人間が手を施したようには見えなかった。髪色よりさらに薄い色素の瞳がストロベリーアイスみたいな体温のない肌に綺麗に埋まっている。伏目がちで、そうすると一層際立つ長い睫毛がとても綺麗だ。彼女をつくるパーツのすべてが彼女の雰囲気すべてを支えていた。来前は息を止めながら彼女の佇まいをただ眺めていた。人が煙草を一本吸いきる姿を彼は初めて最後まで見ていた。
「その写真は?」
体が跳ねそうになるのを必死で押さえつける。彼女はある方の腕を持ち上げ来前の胸を指さした。彼の左胸ポケットからは薄汚れた印画紙が顔を出していた。慌てて隠そうと写真を握りしめ背後に逃がそうとするが、すぐそれも諦め、ついたシワも軽く伸ばした。炭がこびりつき、写真自体もすこし端が焦げている。迦嬰は二本目の煙草を口に含み彼に近づいた。来前は煙草の煙と頭の重さからまた倒れそうになった。ちょうど彼女の目線の位置で持たれた写真を彼女は少し背伸びでのぞき込む。限界が近い来前に迦嬰はまた尋ねた。
「なんだ、君。女がいるのか。」
どこまでもフラットな彼女の問いに来前は一瞬の動揺を隠せなかった。頭に血が大量に送り込まれるのを彼は感覚で感じる。血が昇り、頭が回る。次に彼は冷静だった。写真の女は品もなく、どこか抜けていて、それこそ迦嬰とは対照的にその中で笑っていた。彼の友人は死に、残ったのは馬鹿な女と自分だけ。彼の友人は社交的で、体格もよく、皆から好かれていた。生そのものだった。彼が死んだのはたまたま請け負った任務でたまたま他人の火に巻き込まれたから、それだけだった。本当は来前が書いた手紙に宛先はなかった。友人ですら彼女の連絡先は数年も前から掴めてはいなかった。ただ、もし何かで届いてしまうことがあっても、彼は本当に返事など欲しがっていなかった。唯一残った遺品である写真も捨て方も、捨てた後もわからなかったからただ手元に置いていただけだった。写真の中の女はこの写真を撮った人物に向けて、ただ純粋に微笑みを浮かべているように見えた。幽霊がそこに立ってるみたいだった。今、目の前にいる迦嬰を、迦嬰の輪郭を来前は静かに視線でなぞった。もう誰も穴の中に立ってはいなかった。
「いるんじゃない。いたんです。」
来前はまた丁寧に写真を折り畳みその左胸ポケットに戻した。
来前は今までに銃で二度撃たれたことがあった。一度目はまだ彼が財団に加入して間もない頃。射撃の適正を見るために行われた初回の訓練であろうことか的と人の間を通り抜けようとした。弾は彼の腹をかすめ少し肉を抉った。彼には戦場の適正がなかったのだ。彼はその衝撃に倒れただちに治療が必要な状況になった。周りは見た目だけ大人のひよっこみたいなやつばかりで突然の事故にザワザワしていた。しかしその間、当の本人は運送中も施術中も一貫してずっとにやにやしていた。後に彼の友人が彼にその時のことを尋ねた。
「おい、お前なんであの時ずっとにやけてたんだ?」
彼はまたにやけて答えた。
「当たり前だろ。俺は撃たれたんだぜ。」
来前は腹の傷跡が完璧に治るまで誰が見ても調子に乗っていた。
二度目は左太腿だった。二年目の春、珍しく現地入りした彼はまたしても仲間に撃たれた。彼を撃った隊員の証言によると来前はその場にいる誰がみても邪魔だった。一度目とは比べ物にならない痛みに来前はその場に転がり、そのまま運ばれた。見舞いにかけつけた友人に対して、来前は不機嫌を隠そうとしなかった。前回を知っている友は不思議に思いながらも彼を励まそうとした。
「なぁ、どうしておまえそんな不機嫌なんだ?聞いたぞ。あと数センチ撃たれたところが悪かったら足が使い物になんなかったんだって。」
「なぁって、だからだよ。俺は撃たせてやったんだよあの馬鹿に。」
彼は入院中ずっと苛立っているか寝ていた。彼は怪我が完治してからもずっとイライラし続けていた。
その晩、彼と彼女は一緒に横になった。来前は常に泊まりの荷物を病室に用意していた。彼は自分の歯磨きを咫央のコップの横に置いてたしパジャマだって彼女と同じクローゼットにしまっていた。日付が変わる頃彼は一度ラウンジに降りて温かなお茶を二本買うとそのままその日は病室から出ることはなかった。二人は向かい合わせに寝ていた。咫央はこの時間があまり好きではなかった。軽く触れた指先からは彼の悲しみが流れ込んでくるようだった。