[[tab tale /祈りと、弾丸と]]
僕、僕の名前は…まあ、今となってはそんなものどうでもいいか。今の僕の「名前」…というよりは識別番号と言った方がいいのだろうか?まあ、兎に角。今の僕はD-14134、という。要するにこの番号が今の僕の名前代わりだ。人によっては、まるで囚人番号のようにも思えるだろう。きっとそう思った人のその感覚は正しい物だ。何せ、ほんの少し前まで実際に僕は囚人、それも死刑囚だったのだから。
何で死刑囚になったかと言われれば、答えづらいんだけど。少なくとも、そのことについて嬉々として語ろうとするほどに、まだ僕の人間性は壊れていない…はずだ。兎に角、そうなった顛末はと言えば、浮気を妻が犯していたことに、有るとき気が付いて、口論になった末に頭に血が上って、その挙句に気づけば僕の両手は血塗れになってナイフを握りしめ、妻はその体を朱に染めて身動き一つせず床に横たわっていた…というわけだ。こんなこと、ドラマや映画なんかのフィクションの中じゃありふれた話のように思っていた。でも、それはあくまでフィクションの中や余所の上手くいっていない家庭に起こり得るものであって、僕たちには一切関係のない物だと思い込んでいた。
…こうなってしまうまでは。実際にその立場に陥った時に初めてそれが現実味を帯びて実感できたのはひどく滑稽な話だと思うけれど。まあ、ともかくそんな訳で僕は自身で行ったことを通報して、監獄へと収監された。判決は死刑。僕自身、その判決に逆らうつもりは余りなく、唯々諾々として受け入れた。自分で彼女を手にかけておいて今更だとは思うけれど僕は妻の事を愛していたんだ、本当に。それに、浮気の一因が僕にある事も、否定しようのない事実ではあるのだから。僕なりに彼女を愛していたつもりではあったけれど、この数年はそんな███████に少しでもいい暮らしをさせてあげたいと、その一心で仕事に打ち込み続けた。結果、僕は家庭を顧みることがなくなって、その鬱屈が彼女に積もり積もって…そうなる前に彼女は幾度も僕に訴えてきたのだ。それでも、僕はその声に君のためだからの一点張りで、その声を無視し続けた。そんな事の積み重ねが生んだ結果。それが現状だ。
けれど、結局僕に対する死刑が執行されることはなかった。「SCP財団」。今の僕がD-14134として所属している団体。彼らが僕に対してとある取引を持ちかけてきた。曰く、「死刑から救ってやる代わりに私たちのために働いてほしい」と。当然、僕は最初その話を断った。他の死刑囚ならいざ知らず、僕にとっては死刑の消滅という最大の交換条件はさして魅力的なものではなかったのだから。だってそうだろう?死刑を取りやめにできるだけの力を持った得体のしれない連中のために働くよりは素直に死刑に処されて妻を手にかけた罪を償おうと思っていた。そうでなければ、どうやって僕に罪を償えと?そう反論はしてみたものの、どうやら彼らの提案は問いかけの形は一応とっていたものの、僕に選択の余地を与えるつもりはなかったらしい。僕が先に言ったことを理由に拒絶しようとしたら、すぐに半ば強引に独房から引きずり出されたのだから。それならば最初から問いかける必要などないだろうに、と苛立ったのは仕方ない事だと思う。まあ、そのあとに彼らから言い渡された条件、彼女のご両親…要するに元義両親だけど、彼らに多額の金を付与してくれるという提案に心は動かされたのだけれど。断わっておくが何も僕は、彼女の死を金でなかったことにしようと思ったわけじゃない。ただ、それでも何か僕個人からあの人たちへせめてもの見える形での償いをしたかったんだ。
結局はその条件で提案を呑んで承諾した。それからというもの、めまぐるしいまでの速さで、彼らの研究施設…「サイト」と彼らが呼んでいるところへとほかの元死刑囚たち…財団の基準でいうDクラス職員たちとバスによって搬送された。サイトで最初に与えられた仕事は死刑を免除する、といった破格の条件の割にはGPS監視機能付きのタグとジャンプスーツの着用が義務付けられているとはいえ、単なる書類整理や清掃、建設作業や洗濯といったごくごくありふれた仕事ばかりを回されて、その間に知り合った何人かの他のDクラス職員らとともにいささか拍子抜けの感を覚えるのを禁じ得なかった。…そう、最初のうちは。誰もがそう思ってこんなもんかとあきれた雰囲気すら新参の僕たちDクラスの間では漂っていた。
そんな毎日の中で最初、僕が違和感を覚えたのはサイト████に配属されて二週間くらいが経った時のことだ。その時まで、何度か作業を同じにしていて知人以上の関係(と少なくとも僕は思っていた)D-167██の顔を見なくなったから。Dクラスの誰に聞いても知らず、それならばと顔見知りでたまに世間話を交わす██████████研究員に問いかけてみたのだけれど、彼は少しだけ眉根を寄せただけでこう告げた。
「彼はとある実験に参加した時に死んだよ」と。
その時に僕が感じたのは衝撃でもなんでもなく、ああ、やっぱりそうだったのか、という奇妙な納得だけだった。それはそうだろう。こんな破格の条件、裏でもなければおかしいというものだ。それからだろうか、やけに知った顔が見えなくなっていくことに気付き始めたのは。たぶん、僕がはっきりと自分の置かれている現状を自覚してしまったからその事に目が行きやすくなっただけで、実際にはきっともっと前から何人かずつ欠けて行っていたのだろうけれど。
とはいえ、D-87465のやつみたいに何度も危険なサイトの清掃業務やら危険なブツ、確か財団のいうところのSCPオブジェクトとかいうモノの影響実験やらに参加しても青い顔している割には無傷で生きて帰ってきた奴もいたものだ。まあ、彼はその異常ともいえる幸運のせいで財団から目をつけられた挙句、そのSCP-オブジェクトとかに認定されて収容されたと伝え聞くけれど。まあ、そういう奴は特例中の特例、ありえないと言い切ってもいいだろう(かといって其のことを羨ましがれるかといえば万人が首をかしげることになりそうだ)。だから、僕にいわゆる「特別業務」が言い渡された時、多分僕はここで死ぬんだろうと理解した。
「ワイオミング州にあるとある平屋の農家にて、有線式ビデオカメラを使用してその内部の様子を調査し、撮影して帰還しろ。」
特別業務を言い渡されたことを理解して、どういう状況で僕は死ぬんだろう、などとつらつらと考えていた僕にとってはその単純な命令はまさに拍子抜けするようなもので。自分で考えていた想像との余りの落差に一瞬頭をはたかれたような衝撃を覚えてしまったくらいだ。文面に起こされたその指示のなんと簡単そうに見えることか。そんな程度のことで僕の罪は許されて、あの人たちにも多額の金が入り込むのだろうか。その程度の事で僕は許されてしまっていいのだろうか。とすら思ってしまった。けれど、現場へと搬送された時に僕はそんな思考がどうしようもなく愚かだったという事を思い知らされることとなった。
一見してプラント工場に見える其処に着いた時、僕は思わず僕を現地まで移送した車を操る運転手に問いかけてしまった。
「ここはプラント工場だろう?僕が行くのは農家、って聞いてたんだけれど。」
「ああ。だからここがその農家なのさ。」
何を馬鹿な。そう思った僕はより情報を聞き出そうとしたけれどそれきり運転手は仏頂面で「入ればわかる」の一点張り。まるで、これ以上関わり合いになりたくないと頑なになっているかのような印象だった。しかし、そんな彼の様子も化学プラントの中に武装した男たちによって案内された時(彼らが噂に聞く「機動部隊」だろうか?)何となく、ここやそれにまつわるものを忌避していた運転手の心情を理解できた気がした。
緊迫した雰囲気。財団に加わるまで、ごくごく普通の一般人でそういった空気とは全くの無縁であった僕にもはっきりと肌で感じられるくらいに現場の雰囲気は張りつめていた。それでなくとも僕を案内した男たちの他にも重武装の兵士と思しき男たちがあちらこちらに散見される。それだけの警備を施すに足る何かがここにはある、という事なのだろう。やはり、最初想像していた通り、僕はこれからとんでもない目に合うことになったようだ。とはいえ、拒否権なんて今更ある訳もない。勿論、退くつもりもなかった訳だが。
僕は男たちに半ば連行されるようにして、仮装プラント内に設置されているとある建物に入れられた。仲はこの場所にいる兵士達の宿舎やブリーフィングルームも兼ねている様子で、かなり慌ただしい雰囲気が漂っていた。その中の一角、こじんまりとした部屋に通された僕は事前に言われていた有線式のカメラと、それから自衛用なのだろうか、やけにぎらついた銀の刃を持った長大なナイフと拳銃、その拳銃の予備マガジンを数本渡された。元死刑囚に武器を持たせるなんて豪儀なことだとは思ったけれど、まあたとえ反逆したところでこの数の兵士たちを切り抜けるのは不可能に近いと言ってもいいくらいだし、武器を持たせたのは、これから僕の身に降りかかってくるであろう事に対する財団からのせめてもの慈悲なんだろうか?僕にとっては彼らにそんなものが存在すると今更信じられたものではないが。手渡された拳銃を確認しているときに財団の職員から一つだけ言われたことが妙に引っかかった。「心を込めて祈れ。形式だとかどの神に対してだとかは考えなくていい。ただ祈れ。」どういう事だ?そういえば銃弾の弾頭もどうやらただのものではないらしい。多分…これも銀でできてるのか?あの家の中には狼男でも出るって言いたいのか?…ナンセンスだ、そんなの。そう言い切りたいところだけれど…財団の実情を知っている今となってはそんな話もあながちウソとは言い切れないように思えた。…実際はもっと…そう、もっとイカれたことに巻き込まれていたわけだが。
すべての装備を身に着けた後、僕は兵士たちに両脇を固められて件の民家の前へと立たされた。兵士たちが後方へ退いてのち、農家の中へと進むよう指示が有ったので僕は指示を出した男に向けて一つうなずいた後に民家の方へ向けてゆっくりと歩み出した。近づけば近づくほど、その民家から何か、異様な雰囲気が発せられているように感じた。その場所の緊張感が僕に伝播してそう感じてしまっただけかもしれないけれど、それでも僕にはそう感じられた。ここはヤバい、と。
一歩一歩足を進めるごとに鼓動が早くなるように感じられる。五月蠅いくらいに心臓が脈打つ音が聞こえる。そして…そして戸口を潜ったとき、そのすべてが一変した。さっきまで痛いくらいに感じていた背後からの緊張感やざわめき、そのすべてが消えていた。ゆっくりと後ろを振り向けば戸口から見える光景は真っ黒で…無、虚無というべきものだった。外に見えているはずの光景も何も見えなかった。持たされていた有線式カメラのコードは途中からすっぱりとまるで刃物で切られたかのように切断されてなくなっていた。思わず戸口へと足を向けようとしたけれど、直感的に僕はそれを踏みとどまることが出来た。「この外はなんかヤバい」っていう風にね。だから僕はためしに手に持っていた無用の長物と化したカメラを外の空間に向けて放り投げてみた。すると…まるで溶・け・る・みたいにカメラの存在が消えていったんだ。クソ、信じられるか?カメラが溶・け・た・んだ。きっと僕も最初考えたとおりに足を踏みだしたら…このカメラと同じ末路をたどっていたのだろう。兎に角、この事が意味する所は只一つ————出られない。思わずへたり込んで床に崩れ落ちそうになった。けれど、僕にはそうやって絶望することすら出来なかった。否、許されなかったと言うべきだろう。
————ひたり、ひたり。
と、廊下の奥の方から何・か・が歩み寄ってくるような音が聞こえてきた。SCP財団が管理していて、なおかつこんないかにもヤバい場所の奥から歩み寄ってくるようなヤツが「君は無言で僕の家の玄関に入り込んでなにしてるんだい?そういうのは感心しないな、ちゃんと断って入ってくればきちんともてなすのに!」なんてフレンドリーに声を掛けてくれるはずもないだろう?
だから、僕はその何かが僕を見つける前に、慌てて少し先にあったドアの向こうへと飛び込んでから扉を音が鳴らないようになるだけ素早く閉めて、鍵穴から様子を伺った。少しして廊下の奥から歩いてきたアイツは…アイツは一体全体なんなんだ、クソ。僕にはわからない。二足歩行で、180cm位…歩き方も直立歩行でまるで人間のようで…けれど、類似点はそれだけだ。全身が真っ黒なそいつは…まるで影の化け物のようだった。顔には目も鼻も口も…何もなくてのっぺりしていた。その癖、手と思わしき部位からは長くて鋭い爪が伸びていた。鍵穴からそれを見てしまった僕の恐怖は、それこそ恐慌をきたして喚きだしそうなくらいのものだったさ。多分誰が見たってわかるだろうけど、アイツはやばい。自分の意思に反して悲鳴を上げそうになる口を手で抑え込んで何とかこらえる。そいつはのっそりと僕が入ってきた出口のほうへと歩いていって、外に出ていく。カメラと同じように消滅してしまうことを期待したが…どうもそう上手くは話が進まないらしい。マジかよ、アイツだけはここから出られるわけか。インチキだろう、そんなの。そうは思ったものの、これはラッキーなんじゃないか。すぐにそう思いなおした。外に出て行ったヤツが何をしでかすのかはわからないけれど、あの数の兵士たちに勝つとはそう思えない。それに財団なら対処法くらい知っているかもしれないし。何せ、ここを収容して大規模な偽装を施してまで管理しているんだ。それに万が一奴が戻ってきたとしても、扉を閉めて鍵をかけてしまえばいい。
だから、奴が扉の向こうの空間に消えて行ったのとほぼ同時に僕は駈け出して扉に飛びつき、それを閉めた。閉めた瞬間にかすかな違和感を感じて、けれど本当にかすかだったそれを無視しながら。願わくばあの化け物が外の兵士たちにやられてくたばりますように。
これでひとまずは安心だ。あの手じゃ鍵だって使えないだろうし。…とはいえ、ここが最低最悪なデッドエンドで有る事には依然変わりがない。あの影の化け物どもがあの一体だけとは限らないのだし。そして外には出られない。もしかしたら、あの現象は見た目だけで本当は元の場所へ戻れるのかもしれないけれど…試す気にはなれない。つまり、答えは一つ。この奥へ進んでみるしかないだろう。虎穴に入らずんば…とやらだ。さっきまで僕が息をひそめて隠れていた部屋へ戻ってその奥にあった扉を見据える。その扉の先にあるのは?わからない。
わかるわけもないけれど、どのみち進むしかないんだ。意を決してドアノブを回す。古びた外観とは裏腹に、存外滑りよく回ったドアノブを見ながら音もなく開いた扉の向こうへと一歩、歩を進める。その向こうの光景は、これまた一等イカれた物だった。何せ、高校のロッカールームと思わしき場所だったのだから。その光景だけ切り取って見れば、実にありふれたロッカールーム。ただし、その場所が農家の部屋の扉の続く先になければ、だけど。室内は暗いけれど、何とかぼんやりと映るその光景に唖然とする。思わず、支給されていたライトをつけて周囲を確認してみても、何も変わらない。恐らくはバスケットボールクラブか何かのロッカールームだ。そして、その異様な光景に続く異変はすぐに訪れた。それまで暗かったせいでよく見えなかったけど、あちこちに散乱していた真っ黒いゴミみたいなものが光の中で急に大きく、輪郭を持ち始めたんだ。それは…クソ、アイツらだ、アイツらだったんだ。奴ら、光の中で急速にその輪郭をはっきりとしたものへと変え始めてやがった。やっぱり他にも居やがったんだ!慌ててライトを消した僕は手近なロッカーに飛び込んでまた息をひそめた。まるで鼠のように情けなく、それでいて必死に。けれど、数分くらい待ってみてもあの忌々しい足音は聞こえてこなかった。ロッカーの隙間から外を窺えば…どういうことだ?まるで影も形もないかのようにあの影のような化け物の姿は消えていた。訝しみながら周囲を警戒しつつ、僕はある一つの仮説を組み立てることができた。
…奴ら、あの影のような化け物どもはその姿其のままに影の性質を持っているんじゃないか?つまり、奴らは光のあるところではその輪郭を取り戻して力を増す。けれど、光のない、例えば今の室内のような暗闇の中ではその形を保てず、見えず、触れられない。なら、きっとこのまま暗闇の中を手探りで進むほうがいくらかましなはず。…もしかすると、この仮説は間違いかも。或いは奴らは暗闇の中でも動き回れて僕をあっさりと殺せるのかもしれない。それでも、今はこのわずかな希望の糸に縋るしかない。そう祈ることしか僕にはできなかった。それから…あのゴミもどきにも触れないほうがいいはずだ。何が起こるかわかったもんじゃない。もっとも化け物がそこから姿を現すと知った以上、好んでそれに触りに行く酔狂な奴なんていないだろうが。
足が震える。どうしようもなく。それでも前に進むしかない。このイカれた地獄から出ようとするなら、今更後に引いたところでどうしようもないのだから。クソ、クソッ。僕はただの男なんだぞ。コミックや映画の主人公やヒーローなんかじゃない。畜生め。嗚呼、手まで震えてやがる。視界に入った、ドアノブにかけられた自分の手まで情けなく震えているのを見て自嘲する。それでも、それでも。繰り返し自分に言い聞かせるように内心で呟いて、ドアノブにかけた手をひねって次のドアへあける。開け続けて、前に進み続ける。ショッピングモール、倉庫、図書館、大学。どれも何故か見覚えのある、けれど暗くてあの怪物の出てくるごみモドキが散乱した、変わり果てた部屋をいくつもいくつも通り抜ける。その繰り返しはまるで行き止まりも出口もないぞと僕に伝えてくるかのようで。
そして最後に…これまでとは違って、はっきりと見覚えのあるドアが僕の前にあらわれる。そんな、バカな。やめてくれ…!思わず叫び出しそうになる。まるで心がきしんで悲鳴を上げているかのようだ。けれど、それでも何とか僕はドアを開けて部屋の中へと足を踏み入れる。…目の前に写り込んだその光景は見覚えがあるくらいにありすぎる。そう、僕の家の寝室だった場所。そして…僕が彼女をこの手にかけた殺人の現場。ご丁寧なことに彼女の血がまだべっとりと床にこびりついたままの部屋。これは幻影、幻影のはずだ。分かっている、分かってはいるはずなのに頬を自然と冷たい涙が垂れ落ちる。前に進むと決意した僕の心をへし折るには十二分の破壊力がその光景にはあった。この異常な現象からたった一人で逃げなければならないという事実を前にして、折れそうになる心をそれでも奮い起こして、震えながらでも進むだけの気力を必死に保ち続けていた僕の心は、脚は。動き続けろという理性の叫びに反して、玄関で初めてあの化け物を見た時のように、再び力をなくして情けなくへたり込んでしまう。この先に向かうのは、きっと無理だ。僕にはこの寝室を超えていくことなんてできやしない。
力の抜けた足を引きずるようにしてゆっくりと寝室から抜け出して、ロッカールームの壁にもたれかかるようにしながら声を押し殺してすすり泣く。僕にはもう無理だ。先にはもう進めない。そう考えて、自分の体へと視線を落とした時にふと目に入ったものが有る。銃のホルスターとそれに収められた拳銃のグリップ。そうだ、ここから出て楽になれる方法が一つあるじゃないか?自分自身の頭をぶち抜いてしまえば、解放される。このどうしようもないどん詰まりの地獄から解放されることができる。それも永遠に、確実に。そりゃ、僕は死刑で以て僕の罪を裁いてほしいと思ったし、死ぬのも受け入れてはいたさ。だけど、こんなのってあるか?こんなひどいやり方なんて。脱出不可能な妙な家に入れられた挙句化け物に追い回されて、過去の悪夢を再び見せられるなんて。
もう限界だ。ひどくのろのろとした動きで僕は拳銃を引き抜いてセーフティを解除してから、自分のこめかみに突き付ける。けれど、トリガーに指をかけて力を込めていった時にふと、思いだしたことがあった。僕は何かを見逃してるんじゃないか。どこかで、ほんの数瞬、何か違和感を覚えはしなかったか。僕の生来の気質、周囲の人間から常に指摘され続けてきた、気になった事があればどんな状況においてもそれにのめりこんでしまう、悪癖ともいえる其れが鎌首をもたげる。そんなものはなかった、たとえあったとしても忘れてしまって引き金を引いたほうがはるかに楽で、第一手間がなくていい。そう思いながらも、一度鎌首をもたげた違和感は心の中でどんどんその質量を増していく。
あれは…。あれは…そう、あの化け物の一体を家の外へ追い出した時、もっというなら玄・関の扉を閉めた時だ。上手くは言えないがまるで世界が塗り替えられたかのような。そんな、違和感を感じた。もしかして。僕はあの寝室のドアを振り返る。それから、ここまで通り抜けてきたドアを見る。これまで、僕は扉を開け続けてきた。ずっと、ずっと。けれど、どこまで行っても様々な場所の一部が切り取られたかのように出現し続けるだけで何の進展もなかった。そうだ。なんて簡単なことだったんだろう。扉を開けるのがただひたすらに同じような結果の連鎖を生み出し続けるならば、扉を閉めてしまえばいい。理解してみれば、なんて単純な原理だ。
ついさっきまでの最低な、萎えかけた気分すら忘れて泣き笑いのような表情を浮かべて、思わず笑ってしまいそうになる。こんなことにも思い至らないなんて。頭へとあてがっていた銃をずるり、とおろして再びホルスターへとおさめる。壁を支えにしながら、ふらふらと立ち上がって元来た道を戻っていく。最後に一度だけ寝室へと振り向いてさよなら、とだけ呟いて。僕はその呪わしくも、忘れてはいけない、そして忘れられない部屋の扉を閉めて、背を向けた。まだ、終われない。
ふらつく足を踏み出して、最初に化け物が歩いてきた廊下まで戻ろうとする。化け物が最初に姿を現した方へと自分から向かっていく、というのはあまり気分のいい話ではないけれど。ただでさえ、光さえあればすぐに襲いかかってくるような連中だ。暗闇を慎重に息をひそめて、ネズミのように歩く。普段の僕ならその様子を無様とすら思っただろう。けれど、今は、今だけは無様を気にすることが出来るわけもなく、必死に身を隠しながら、目についたドアを片っ端から閉めていきつつ、来た道を戻り続ける。そして、漸く最初に入ってきた玄関までたどり着く。化け物を相手取ることを考えて震える手で拳銃をホルスターから抜き放つ。今度は自分の頭を撃つためでなく、化け物を撃って前に進むために。長い長い廊下の先に見えるドア。何の変哲もない、これまでと全く変わらないそのドアをゆっくりとあける。銃を片手にこれまでの事を思い出してこの先にはどのような人外魔境が広がっているのだろうかと感じて、心に浮き上がってくる怯懦を必死で押し殺しながら。
…しかし、予想に反してその先に広がっていた光景は凄く、そう凄くありふれたもの。どのような一軒家にも存在するであろうリビングルーム。だが、だからこそ。この空間はこれまで通ってきた部屋とは明らかに異常なモノであった。異空間ではない、恐らくこの家本来の部屋なのだ、ここは。つまり、僕はここにきてようやく本当に前進することが出来た、きっとそういうことなのだろう。開けたこの部屋を警戒しながらも、ゆっくりと中へ進めばまたしてもこれまでと異なる異質なものが転がっていた。…干からびた人の死体。 数人分の死体が転がっていたのだ。自殺したか、あの化け物にやられたのか素人の僕に判断がつかないけれど。このままいけば僕もきっと彼らのようになってしまうのだろうことは簡単に予測がつく。再び折れた心を好奇心だけで必死に寄せ集めてここまで来た。
けれど、あの寝室とこの死体のせいで最早それも限界。せめて彼らを僕なりにでも弔ってから自分も彼らの後を追おう。死体の手を組み直してやって、せめて少しでも安らかに逝けるようにしてやろう。そう思って一人の死体に近づいた時、その手に銃と、そしてメモが握られているのに気が付いた。不躾とは思うけれど、その紙が遺書だったりした場合、そこに書かれた願いを、せめて現状で僕にできる事を叶えてあげたい。同じ場所に閉じ込められたという奇妙な仲間意識ゆえか、そう思って彼の握りしめたメモ用紙をそっと手に取って目を通していく。
『Item #:わかんねえ
Object Class:Keter。かわいそうに。
取扱方:
アンタは死ぬよ、残念だけど。
これは脅しじゃねえ。オレはエージェントバークレー。オレはこの呪いの中にいて、アンタに話してる、アンタもここに来たのか?アンタ死ぬよ。オレはすでに死んでるだろうけどな。』
最初の数文までを読んで、漸く悟る。彼等もまた僕と同じ財団の職員なんだろう。いや、正確に言うならば、正式職員できっと僕よりその地位が高いのだろうけど。きっと彼は僕に先行してここに送り込まれた人達の一人。そして、彼の死体に一つ、奇妙な点があった。恐らく自殺したであろうはずなのに、その銃痕が胸に刻み込まれているという事。何故だ?自殺するにしたって普通はそんなところ狙う訳がない。こめかみか、或いは口内に銃口を突っ込んで延髄か脳味噌を吹っ飛ばすと言ったところだろう。なぜそんな真似をわざわざ?分からないけれど、そんな真似をした理由がこのメモの中に残されているかもしれない。そう思った僕はさらに読み進めていく。彼…エージェント・バークレーが最後に綴ったその記録と、そして祈りを。
『だから出れねえ。さっさと封印しな。方法は唯一つ。呪われた扉を閉めることだ。その扉を通っても戻れねえからな。まあ、もう試してるか。だけどヤツらはその気になれば外に出られる。そのせいでオレらはこのクソッタレな場所を見つけちまったんだからな。アンタがもう扉を閉めてくれてるといいんだがな。オレらはもう閉めた。外に出るのは諦めたんだ。まだやってねえなら、まっすぐ戻って扉を閉じな。それが今、アンタがやる唯一つのことだ。なんにせよ、アンタは死ぬ。死ぬ前になんかイイことしときな。』
…僕の考えはどうやら間違っていなかったようだ。扉を閉めることで初めて前に進むことが出来る。実践してみたこととはいえ、なんてあべこべな話なんだ。それにイイ事、なんて見当もつかない。こんなところで何をしろと?せいぜいが最初に考えた通り、せめて彼等…バークレーや他の死人たちのために祈りをささげて出来うる限り丁重に弔ってやることくらいだろうか。
『概要:んで、ここから説明だ、もう知ってるかもな。財団はアメリカのど田舎で問題が起きたと知らされる。牛や野生生物が変死したんだと。行方不明者の数は増えるばかり。見つかっても心臓が無くなった死体で見つかる。切ったり、裂かれた痕もなくな。胸の真ん中がカラなんだと。ヤツらは真っ黒いカスみたいなのが浮かんでるのを見つける。似たようなヤツを見たことがある財団の秀才野郎が、殺し方を発見した。神に祈りを捧げた銀の弾丸をぶち込めばいいってな。文字通りにな。なんでかは知らんが、それでうまく行く。どの神かは関係ねえ、アンタが心を込めたかが重要だ。』
…想像以上だ、それも悪い方向に。なんて化け物どもなんだ。心臓を傷もなく抜き取って生物を殺すなんて。嗚呼、けれどこれで分かった、この中へ来る前にエージェントから伝えられた、「祈れ」というあのアドバイスの意味が。もっと詳細に説明してくれれば…いや、無理か。こんなこと正確に伝えてしまえば僕は多分向こうでパニックになって、殺されるって事すら忘れて逃げ出しそうだしな。…まあ、今更奴らの殺し方を理解したところでどうしろという話ではあるのだが。
『オレにはもうできねえがな。巣を見ちまったからな。とにかく、財団はアレがすべてどこから来んのかわかってる。村の真ん中にある、なんかの家だ。殺人やらカルトやら儀式やらうわ言喚くやらなんやらあって以来そこには何年も空き家だ。肝心なのは、ここの玄関からヤツらが出続けてるってことだ。部隊がそんなか入っていったが誰も帰ってきやしねえ。でも、バケモンも出てこなくなった。正気な奴ならこう言うだろう。十分だ、目を離すな、少しでも動くものがあれば殺せ。だけど、まあ、これがこの財団だ。』
そういえば…財団にも便宜上名称が有るんだったっけ。聞いた話では確か設立された最初に提唱されたモットーの頭文字…Secure.(確保) Contain.(収容) Protect.(保護)だったか。ご立派な思想だよな、ホント。何がSCP財団だ。Destroy,Destroy,DestroyにしてDDD財団とでも名乗ればいい。なんだってこんなイカれた代物を保護しちまうんだ?しかも、話に聞いた限りじゃこいつよりヤバいのもごろごろしてるみたいだし。しかしまあ、何か?この空間はカルト教団かなんかの悍ましい儀式のおかげでどうかしちまったって言うのか?しかも奴らは巣まで持ってるって話だし。まるでB級映画の筋書きみたいだ。…僕が現在進行形でその地獄に放り込まれてなかったらそう嘲笑ってられたんだろうけど。でも、これは徹頭徹尾現実だ。逃げるすべはない。
『アンタはどの糞部隊のタフ野郎だ。スクェーレ・ノースか、オレみたいに聖歌隊か。アンタは扉をぶっ壊して中に入る、それだけ。そしたら終わりだ。』
…残念ながら、貴方の予想は大いに外れてしまったようだ、エージェント・バークレー。エージェントですらない最下級の、使い捨て可能な消耗品のDクラス、それもタフガイですらない僕が貴方の遺書を手に入れてこうして読んでいるのだから。最も、貴方が挙げた彼等でもあってもたどった末路は同じだったとは容易に推測がつく。貴方自身、本当のところはわかっていたであろうとは思うけどね。
『居間は最悪だ。そこはオブライエンが捕まった場所だ。捕まるとアイツは突然ぶっ倒れ、ヤツらの一人が心臓を取ったんだよ・・・爪で、だったかな?ヤツらはここでは不明瞭だ。もう気づいてるだろうが。ヤツらは影みたいなもんだ。光から離れろ。バカみたいな話だけど、そうしろ。光の中で、影は強くなる。ヤツらは輪郭を持つ。暗闇ではヤツらは不明瞭になる。ヤツらはアンタにほとんど触れられないし、見ることもできない。オレはヤツらは影を見てるんだと思う。わからねえが。正直なところ、ここじゃ藁にも縋りてえ。』
…居間は危険か。結局、此処のロジックに気付いて進んだところで意味なんてなかったわけか。とんだ喜劇だな。まあ、もう今更戻る気力もわいてこない。財団が次の犠牲者を送り込まないことをせめて祈りつつ此処で幕引きにしたいものだ。…そしてやはり僕の印象通り、奴らは影のようなもの、か。光は厳禁、薄暗闇の中をおっかなびっくり歩きまわらなきゃいけない訳か。もし、奴らから逃げてどうにかしようとするんだったら。意味なんてないだろうが。
『アンタはもう扉で戻ろうとしただろうな、だけどできねえ。それはもっと最悪な場所につながってる。そこにバケモンはいない、だけど…外に出て家から離れたジョーンズは、信じられねえかもしれないが、溶けた。アイツの身体から何かがはじけだして、そして…。アイツが戻って来なかったってことよく覚えておきな。そして、オレらは扉を閉めた。それで、オレらは家の中を動き始めた。気づくまでオレらは光を点け続けた。3人がそれで殺られたが、おかげで周囲を良く観察することはできた。ここがどこかって?でかい。ただの農家じゃねえ。ここは…ここはまるでいろいろな場所をかき集めて継ぎ合わせたようなとこだ。アパートみてえなとこもあればショッピングモールみてえなとこもある、信じちゃもらえないかもしれんが、オレの高校のロッカーまでありやがった。タイルも何もかも同じやつだった。ほかにはなんでできてたと思う…ごみだ。それは黒く、影みたいで、ほとんどが光りに照らされていた。明かりが消えれば、アンタも手を入れられる。止めといたほうがいいがな。それでトレスは消えた。なんかがアイツを捕まえると、引っ張られていった。穴は小さかったが、それでもアイツは引っ張られていった。だから、光は避けろ、暗闇で足元を見続けろ。』
ああ、涙が出るほどありがたい忠告だ、それが手遅れにすぎることを除けば。まあ、自分の体が溶けた訳じゃないんだ、よしとしよう。それにどうやら僕の感じた印象は万人が同じく…とはいかないかもしれないけど、少なくとも一人は同じ想像をするモノだったらしい。…高校のロッカー?その言葉を聞いて脳裏に閃くものがあった。ここで一つの推測が出来上がる。ここは…入ってきた人間の記憶を「覗く」か何かして、その時に合わせて内部が無限に形成されていくんじゃないだろうか?それならあの寝室があった事にも合点がいく。それに進む部屋すべてに見覚えがあったことも。そしてあの忌々しい怪物たちの出てきたゴミ。触れなくて正解だったらしい。…大体なんだって危ないってわかりきったものにわざわざ好き好んで手を伸ばそうとするんだ?それも調査のうちだっていうのか?全く、なんて話だ。
『もちろん、脱出はできねえ。オレらもそれは理解した。アンタが見つける扉はこのキチガイ病院の別の部屋に着くか、外に出るかだ。ようやくオレらは死ぬんだとわかった。そう、ここじゃ餓死するか、ヤツらに捕まるかしかねえ。感動的な選択だよなあ、ええ?』
…分かりきっていた事ではあるけれど、やはりその二択か。いや、僕がやろうとしている自殺という選択肢もここに加えられるのだから三つかな?確かに感動的だ、本当に。涙がちょちょぎれそうになってくるくらい。
『ここでアンタがやることは一つだ。オレはやりきれなかったが、アンタはできるかもな。それをしてもアンタが生き残れるとは思わねえ…でも大事なことだ。誰かがやってくんなかったら、ヤツらはいつか外に出てくる。間違いなく。ここは色々な場所を奪い取ってできたものだ。それで、オレはこう考えてる。ここにはまだ他に扉が存在するに違いないと。オレらは見つけた扉をすべて閉じきった。だけど、また扉が開いたら?そのとき財団がヤツらを見つけられなかったら?クソが、あいつらは扉を閉めることすら知らねえんだ。また誰かをこの中に入れればヤツらを止められるってことに気づいてくれるのを願ってる。もっとも、入ったヤツがみんな扉を閉めるくらいには頭が回るって仮定の話だがな。』
僕にやれること?そんなものが残っているとは全くもって思えない。僕はどこにでもいる有り触れた、ごく普通の男だ。僕の代わりにタイタス・クロウか何かでも呼んで来いと叫びたくなる。奴らと戦えと?ナイフと拳銃だけのちっぽけな装備で。ナンセンスなジョークだ。けれどまあ、扉を閉めることに気づいた辺りは僕は試験の第一段階はクリアしたわけだ。受けたくもクリアしたくもない試験ではあるけれど。
『そうか、オレはこれを止める方法を見つけたと思う。それは巣だ。オレは一度だけ、2, 3分見ることができた。デニングの心臓を抜き取ったクソ野郎をオレらは追った。オレはこの部屋がすべての中央にあるんだと思う。それは真っ黒で、どんな灯りも吸い込むことができるんだと思う。ランプ、懐中電灯、ロウソクなんかもな。他のヤツらも運んでいったのをオレらは見た。とにかく、中央にたくさんの心臓でできた塊がある。心臓はどれもこれも山に投げ込まれて、引き裂かれてた。ヤツらはデニングの心臓を放り込むと、それは鼓動し、脈打ち、のたうちまわった。それから引き裂かれて、心臓を一つ引きぬいた。それは震えて、成長し、動き始めた。塊がバラバラになっても心臓は鼓動し続けた。オレの胸も疼くのを感じた。』
…奴らを止める方法だと?嗚呼、神よ。僕のツキはまだなくなってない訳か。そう思って読み進んで行って、その次に書かれた内容に思わず慄然とする。奴らを止める方法、そしてその次に書かれた文章は巣の詳細。感づかないほうがおかしいだろう、ここまでくれば。余程鈍くない限り。そして、僕はあいにくと鈍すぎるわけではなかった。
『そこは影の集まり。バケモンってことじゃねえ、本当の人間の影の集まりだ。人間から伸びてる影は一つもない。影は心臓から伸びていた。そして、新しい影が現れると同時にバケモンが産まれた。影の奴は心臓から離れようとしていたが、離れられなかった。オレは逃げた。オレは耐えられなかった、分かるか?オレはこのクソッタレな状況に対処する訓練なんて受けてねえ。オレの後ろでなにか聞こえた。それがオレを呼び止める仲間の声なのか、バケモンがオレらを見つけた音なのかわからないが、オレは皆と別れた。オレは隠れるのにちょうどいいクローゼットを見つけ、それ以来ずっと隠れ続けている。オレはこれをペンライトで書いている。ヤツらが近づく音が聞こえたら、オフにしてる。今の所、このやり方で上手くいっている。』
取り出した心臓は奴らの素材になる、それは分かる。だが心臓から伸びる影…?離れようとするってことはその影には意志のようなものも存在しているという事なのだろう。だが、理解できない。最も、この農家の中に入った時点で理解できない事しかない訳だが。今それを考えてももはや意味はない事だし。
…彼が逃げることを選択してしまったことを果たしてだれが責められようか。それが出来るとするならば恐らくは彼に置いていかれた同僚のエージェントたちだけだろうけれど、その彼らも恐らく今頃は化け物どもに仲間入りしている事だろう。この狂った場所の中に入ってきて、それで心折れないものが居るだろうか?ましてやその化け物どもの根城としている場所でかつての仲間が心臓だけに、影だけにされた姿を見て臆さないものが居るだろうか?居ないだろう、居る筈もない。だが、そんな逃げた彼でも僕よりは遥かにマシだと言えるだろう。僕としては尊敬の念すら抱きそうになる。安易な死の道に逃げようとする僕と違って彼は生きて自分の負った責務を果たそうと分かり得る限りの情報を書き残したのだから。僕も、その言葉にかなうことならば応えたい。もしこの心が折れていなかった、と仮定してだが。そう、悲観的になっていた。少なくとも、次の文章を読むまでは。
『オレはここから動けない。オレの銃には弾が少し残ってるが、意味なんてねえ。もう祈れない。巣を見ちまった。だけど、アンタ、もしアンタこれを見つけたら、俺に代わって、やり遂げてくれ。多分、アンタはオレよりも強い。決心がついたら、巣に行ってぶち壊してくれ。すべての心臓をぶっ壊すんだ。そうすりゃ、ヤツらを殺せるかもしれねえ。これがオレが考えられる唯一の方法だ。』
無茶だ、むちゃくちゃだ。僕なんかに。僕なんかにそんな真似ができるわけがない。そう思ってしまう。そう思わざるを得ない。情けない。情けなくて涙すら込み上げてきそうになる。よれてしわの残された紙面を指でなでながら自虐する。そして、とうとう涙を一粒、紙へ落してしまったときに、気づく。
…紙にいくつものシミが刻まれていたことに。まるで、僕の前にこの紙へと誰かが涙を幾筋も、幾筋も落していたかのように。自分の情けなさを嘆く様に。恐怖に負けて尚、それに抗おうと泣きながら抵抗したかのように。そのことに思いを馳せれば僕もつられて涙が出る。先程までの冷たく感じる涙ではなく、熱を持って垂れ落ちる涙が。悔しいさ、僕だって。生き抜きたい、という考えが真っ先に来るわけじゃない。そりゃあ僕だって生き抜きたい。このままここで死ぬなんて誰が好き好んでやるって言うんだ。少なくとも、僕は違う。でもそれ以上に。それ以上に、このままここで何もできずに死ぬのが悔しくて仕方がなくなってくる。それは。彼の、バークレーの祈りを、最後の願いを、抵抗を無駄にしてしまうことだから。自分でも理解できないけれど何故か自然とそう思えて、俗に言う男泣きというヤツをしてしまっていた。
『アンタは死ぬだろう、でも何やってもここじゃ死ぬんだ。だからなんの問題もないだろ?オレ、オレはこれから居間へ向かう。アンタがこれを見つけてくれることを祈って。もちろん、オレの心臓はヤツらに使わせない。』
方法はもう示されたんだ。後は、僕が。いや、「オレ」が祈りを受け取って銀の弾丸になるだけだ。重ねられた「オレ」。「僕」なんていうのは…やめだ。彼の願いと、オレの思いが重なる。
怖くて足が震える。ここで死ぬことになるだろうと考えて。怖くて手もおぼつかない。自分という存在は無意味に消えてしまうのだろうかと考えて。怖くて涙がにじむ。こんなまともじゃない、心底からイカレきった場所で死を迎えてしまうだろうこれからを考えて。
けれど、今はそれより怖い物が出来た。出来てしまった。祈りを、受け取ってしまったから。それを無碍にすることなんて、できなかったから。彼の文字通り命をかけた抵抗と、オレが何もできずに死んでいくのがたまらなく怖い。紙中びっしりと刻まれた彼の涙の痕を見て。臆病だと、自分を罵り。それでもなお、自分を奴らの材料になんかさせまいと心臓を自身の手で打ち抜いた彼の振り絞った勇気を見て。奮い立った。奮い立つしかなかった。そうさ、どうせバークレーが言ってるようにどうせこの中に入った時点で死んじまってるようなものなんだ。それなら、みっともなくても。格好がつかなくても。足掻いてやる。僕はこいつを止めれるかもしれない方法を託されたのだから。いつもの僕のように失敗を恐れて踏みとどまる必要なんてないんだから。だって、どうせ生きてここから出られる可能性なんてゼロに等しいのだから。それなら、やってやる。やれるだけ。バークレーの書いたメモの、祈りの最後の部分をゆっくりと噛み締めるように読む。
幸運を。G o o d l u c k. 死にゆく貴方に、死にゆく者より敬礼を。M o r i t u r i t e s a l u t a n t.
ああ。やってやるさ、アンタの分まで。だからそっちで見てるがいい、オレがどこまでやれるのか。例え、最後まで行け付けないとしても、足掻いてやる。…死ぬのは、怖くなくなった。不思議と。ラテン語の警句で見送られるなんて洒落てるじゃあないか。紙を彼の手へともどし、手を組み直してやってから立ち上がる。
…正直なところ、この手紙はお守り代わりにしておきたいところだが…止めた方がいい。彼の祈りはオレだけに託されたものではないのだから。きっと、彼のそばにある方が正しいのだ。目の前に在る、これまでより一層異様な雰囲気を放つ…ように思える、ドアを涙をぬぐって、見据える。いこう、この先に。生唾を呑みこんで、少しでも乾いてひり付いた喉を癒すようにしながらまた一歩足を踏みだす。これまでとは変わらない、相変わらずの異様な雰囲気。それでも感じる重圧はこれまでよりはるかに重く体にのしかかってくるように思える。きっと、何も変わっていないのだろうけど、やはりこういうものは気の持ちよう、ということなのだろうか。
一歩、一歩。微かに鳴り響く自分の足音にすら恐怖してしまいそうなほど神経を張り詰めさせながら必死で歩く。そうやって、たどり着いたのは一つの部屋。彼のメモに残されていた通り、これまで以上に真っ暗で、光を吸収してしまっているかのような暗黒におおわれた部屋。その中央にはバークレーの言っていたように、心臓でできた不気味で奇怪なオブジェがあった。真っ暗で、光源もない、そのはずなのになぜか心臓の一つ一つから伸びている影たちをやけにはっきりと視認できる。束縛から逃れようと必死になってもがいている者。ただぼんやりと立っただけになっている者。何かを考え込んでいるかのようにうろうろと動き回っている者。そして、すべてを諦め、どうしようもないという事実を受け入れたかのようにしゃがみこんでいる者。そこにはあの化け物どもが生み出してきたすべての犠牲者たちが居るのだろう。身勝手ではあるけど、せめて彼らをきちんと解き放ってやろうとバークレーの推察通りに手近な心臓へと手を伸ばす。
その時、恐れていた最悪の事態が起こった。あの化け物どもの一匹が戻って来たのだ。もし捕まれば私も同じようなことになり、おそらくこれを止めるのは不可能になる。反射的に手に握りしめていた拳銃をしっかりと構えてバークレーの祈りが無駄にならないようにと祈りながらトリガーを引く。此方へ飛びかかろうと構えていた化け物の胸へとまるで吸い込まれるかのように銀の弾丸は飛び出していって…一瞬ののちに化け物をただの硫黄の塊に変えてしまった。
…やった。やってやったぞクソッタレめ、ざまあみろ。ここにいる誰かたちの仇だ。とは言え、このささやかな勝利に酔いしれている暇はない。この銃声を聞けば他の化け物たちも集まってくるかもしれない。なら、その間にやるべきことは一つだ。目の前で脈打つ心臓に恐怖しそうになるのを抑え込みながら、手に取って銀の刃を持つナイフを振りかざして、その心臓へと突きたてようとする。
その時、ふと思い出したことが有って壁を見る。真っ暗な空間に焼きつけられたかのように浮かび上がる、その心臓から伸びた影を見る。恐らく男性の影であろうそれは、まるでやってくれとでも言わんばかりにオレの方を向いて頷いていた。…わかった、任されよう。迷いは消えた。今度は逡巡することなくナイフを心臓へと突きたてて破壊する。…グチャ。生々しい音と感触と共に心臓の一つが硫黄となっていく。これでまた奴らを一匹この世から消せた、というわけだ。満足感を覚えながらもハッとして先ほどの影が居た方向を振り返る。分かりきっていた事ではあるが、心臓を破壊したのとほぼ同時に、その影は消えようとしていた。
―――――ありがとう
そんな言葉を聞いたように思ったのは果たしてオレの幻聴だろうか。きっと幻聴だろう。幻聴であってほしい物だ。化け物の仲間入りを無理やりさせられてこの中へと閉じ込められ、挙句其の救いが死ぬことしかない、など…あまりにもむごい話ではないか。そんなことがあっていい物か。許されていいわけがあるものか。これまで感じた事すらない強い義憤を感じてただひたすらに心臓を切りつける。そのほとんどが例の言葉ではあったけれど、中にはまだ死にたくないという悲嘆や、何故そんな真似をするんだという怒りの声すら聞こえてきて…其の度手を止めそうになる。心がまたへし折れそうになる。
それでも。それでも今更やめるわけには行けないんだ。歯をきつく食いしばりながら半ば機械のように、同じ動作を…繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し、行う。心を殺して、耳を塞いで。オレの精神を責めさいなむ彼らの、犠牲者たちの声から目を背けて耳をふさぎながら。そうやって繰り返して数十分か数時間…数分ってことはないだろうな。
ここに閉じ込められてすっかりくるってしまった体内時計を力なく自嘲してみながら、やっと繰り返したその行為に終わりを見出す。後数個、たった後数個だ。それで、オレの、バークレーの願いは果たされる。祈りは、届いた。そんな時でも、いやそんな時だからこそ気は抜けない。この心臓をここまで破壊したという事は=あの怪物ども、クソッタレの影の化け物どもの総数をそれだけ減らせたという事なんだろうけど、当然それだけで安堵するのは些か早計に過ぎるというものだ。そら来た!パン、という乾いた音とともに銀の弾丸が発射されて再び化け物の体を射抜いて硫黄の塊へと変える。
先ほどからかなりの頻度で奴らがこの部屋へと侵入してくる。まるで、焦るように、ここへと向かってくる。つまり、事態は奴らへとって悪い方に、そしてオレにとってはいい方向へと進んでいるというわけだ。ハハッ、胸のすくような思いだ。けれど、そんな中で有っても時間が経つごとに状況は悪くなる。破壊してない心臓はまだ多い、あいつらは一発で仕留められるとは言え、このままでは有限の弾を使い切ってしまう。もし、弾が切れて近寄られれば恐らくオレは勝てない。弾が切れたら、おしまいだ。だから、その前に。繰り返し振りかぶってはナイフを心臓へと突きたてた腕が痛む。いったい何個の心臓を破壊してきたのだろう。彼らの悲痛な声を聴いて心も摩耗しきった。それでも、やるしかない。後、一個だ。後一個。…最後の心臓に繋がれていた影はオレを気遣わしげに見やった後にこの真っ暗な部屋の壁に消えて行った。最後の影の言葉はありがとう、だった。…悪くない、かな。何故か達成感すら感じられる。そこまで考えて違和感を覚えた。
「…待てよ」
思わず言葉が口からこぼれ出る。全ての心臓に僕は刃を突き立てきったはずだ。なのに、なぜこの状況は一向に改善されない?疲労しきって壊れそうな程に鈍った思考が、割れそうに痛む頭が回転する。ふらふらと足から力が抜けてくず折れる。やっぱり出られないか…或いは、まだ終わっていないのか。その答えはすぐに明らかになった
…のそり、のそり。
これまでの影と同じような、それでいて明らかに一線を画す存在がこの部屋の中へと入ってきた。明らかに、これまでのモノより大きい。人間を元にしているとは思えない巨躯。天井に頭を擦り付けそうになりながらうっそりと歩み寄ってくる。優に三メートルは有るだろう。全ての心臓を破壊したはずなのに、こいつは動ける。何故だ!何を間違えた!彼の推測は間違っていたというのか!?それでも抵抗しようと銃口をそいつに向けて引き金を引く。……カチリ。無情な金属音が響く。
「畜生ッ!」
罵声が口から飛び出て、それでも引き金を引き続ける。其の度、冷たい金属音だけが部屋に響く。弾切れ。予備のマガジンももう使い果たした。役立たずになった拳銃を放り捨てて手に持った血まみれのナイフを突きつけて情けないほどに腰が引けた構えで、腕を振り回して牽制する。
一瞬だけ怯んだ様子を見せるもののすぐにそんなものは脅威じゃないとばかりにまた足を踏みだしてくる。そいつの表情は全く読み取れないはずなのに、何故だかこちらを嘲笑してきているような気がした。自分を苦しめておきながら、抗う術を最早見いだせずに、その膝を今にもおりそうなオレを。ここまで来て、どうしようもないのか?本当に打つ手はないのか?或いは…バークレーの考え自体が間違っているのか?
そこまで考えて不意に気づく。彼はあのメモに何と書いていた?「この部屋にあるすべての心臓を破壊しろ」。そう、言っていたはずだ。そうか。オレは失念していた。まだ、一つ残ってるじゃないか。ピンピンしたまま脈打っているとびっきりに新鮮な、心臓が。ここに。オレの胸の中にあるじゃないか。疼く胸を押さえつけながら心臓が鼓動しているであろう胸の辺りを見る。その間にも化け物は確実に距離を詰めてくる。…ああクソ、やっぱりここから出る事なんて不可能じゃないか。
…でも、だからこそ。オレの、僕の腹はもう決まってる。ああそうさ、あの手紙を読んだ時からもう決めてたことだ。どうせ死ぬなら、イイ事をして死のう。抗って死のう。オレはただのDクラス職員、使い捨ての末端に過ぎない。だから何だ?それがどうした。
震える声で、ガチガチと恐怖して歯の根を鳴らして。それでも、引き釣った笑いを浮かべながら。オレの意図するところに気づいたのだろう。まるで、これから行う行為を制止するように腕を伸ばしながらそれまでの余裕をかなぐり捨てて走り寄る。後数秒もあれば、それは間に合っただろう。つい数瞬前まで此方をなぶって殺そうとしていた奴が、僕が自殺しようとするのを必死に食い止めようとするその姿はひどく滑稽で、口の端が釣り上る。
けれど。
「ざまを見ろ…死にゆく者より、死にゆくお前に敬礼を…!」
吐き捨てるように、小ばかにするように呟く。走り寄ってくる奴の姿を嘲笑しながら、オレは、僕は。自分の胸に刃を突きたてた。冷たく鋭い刃が僕の肉を切り裂いていく。事ここに至って僕にも少しはツキが回ってきたらしい。水平に刃を寝かせて突きたてたナイフはあばら骨に刃が当たる事もなく、またよく研がれていたせいだろう、殆んど抵抗なくオレの肉を切り裂いて、自分でも驚くほどあっけなくその切っ先は心臓までたどり着いて、貫いた。一瞬の後に気が狂いそうなほどの痛みと共に灼熱の熱を持つ液体が喉をせりあがってくる。我慢できずに勢い良く吐き出したそれは、掛け値なく己の血だった。僕のいのちが流れ出ていく。真っ赤な血液として。
それでも、目蓋を瞑ってこの地獄のような痛みを早く終わらせたいという甘美な誘惑から目を背けるために必死に目蓋を開けて耐える。本当にこれで正解だったのか確認してやろうと。オレの目の前で、化け物はもがき苦しむように全身を掻きむしりながら段々と硫黄へと変わっていく。
…成功だ。もう、十分だ、僕はやり遂げたんだ。その光景を見届けた僕の目蓋は自然と下がっていき、やがて視界は暗闇の中へと閉ざされた。不思議ともう痛みは感じない。これが死ぬという感覚か。ひどく冷たいのに、どこか心地よさすら覚えてしまう。…嗚呼、僕と、バークレーの祈りは通じたんだ。
もう…休んでも、いい…ころあい、だろう……
…ああ、そうだ…もし、てん、ごくなんてものが…ある、なら…バークレーと、あえた、なら……銀の、弾丸に…ぼくをか、ってに…したてあげたこと……文句、言わないと……。そ まえに…じこ、しょうか …か、ら…しな と、だけど…。
…それか、ら…あ、あ… ███████…ぼ も…やっと、きみのもと、に…。あ、やまら、ない、と…。あわせ かお……な けど……。でも、もし、ゆる て れたなら、また…まえ、みた に、ぼくの、なまえ… ██████って、よん ほしい、…
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